長文集  7月2週  ★「そこをなんとか」(感)  ni-07-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2021/10/15 17:26:11
 【1】「そこをなんとか」という言い方は
きわめてあいまいである。「そこ」とは何を
さすのか。「なんとか」とはどういうことな
のか。おそらく、これをそのまま外国語に翻
訳したら、まったく意味をなさないだろう。
【2】いや、意訳しても通じまい。だいい 
ち、意訳のしようがない。強いて説明するな
ら、「あなたはそのような理由で拒絶なさる
が、その理由をもう一度考え直して、私の要
求に応じてくださるまいか」とでも言うほか
あるまい。
 【3】しかし、外国人が理由をあげてたの
みを断る場合は、「だから、私はあなたの願
いをお引き受けするわけにはいかない」とい
う確固たる立場を表明しているわけで、した
がって、もうそれ以上いくらたのんでも、応
じてくれる余地はない。【4】相手の要求を
いれる余地がないからこそ、当人は断ったの
である。
 ところが、日本人は義理人情にからまれて
、どんなに明白な拒絶の理由があろうと、相
手に熱心にたのまれたら、それをむげに断る
のは、何か気がひけるように思ってしまう。
【5】われわれはそれを「義理と人情」のせ
いにするが、もともと義理と人情とは、正反
対の概念なのである。「義理」とは、正当な
理のことであり、「人情」とは、その理を解
きほぐす情を意味する。【6】このように、
正反対のものを一緒にし、折衷して、日本人
はそこに独特の判断領域を設定するのだ。そ
れは、別言すれば「情状酌量」といってもよ
い。【7】つまり、一切のことがらは、それ
自体完結しているのではなく、時と場合に応
じて、伸縮自在の形をとっているわけであ 
る。
 【8】だから、日本人のノーは、けっして
絶対的な否定ではな く、その一部にイエス
を含み、イエスは、その中にノーの要素をあ
わせ持っている。【9】「日本人の不可解な
笑い」といわれるものは、その時その時の、
こうした判断から生まれているように私には
思われ∵る。それを勘案するあいだ、日本人
は微笑しているのである。とうぜん、外国人
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には、それが狡猾なごまかしのように映る。
【0】けれど日本人は、これこそが人情、す
なわち、もっとも人間的な対応とみなすのだ

 じっさい、「そこをなんとか」という表現
の中には、日本人のものの考え方が、じつに
よくあらわれている。その考え方とは、すべ
ては完全ではない、ということだ。そこで、
たのむほうも、たのまれるほうも、いくばく
かの部分が必ず保留されていることを前提に
話し合う。したがって、あと、どのくらい可
能性の余地があるか、その「残された部分」
を両者は見きわめようとし、この言葉が頻出
するわけである。
 日本の絵画の特質に「余白」の美というの
がある。それに対してイスラムの芸術は、ま
ったく逆で、空白への恐怖とも思えるほど、
びっしりと空間をうめつくす。モスクの絢爛
たる装飾に、それがよく現れている。
 もともと砂漠の民であるアラブ人は、けっ
して妥協の余地を認めない。それが、こうし
た芸術の性格にも表現されているのではなか
ろうか。
 ところで、日本人の好む「余白」だが、こ
れは言うまでもなく、可能性を意味する。画
家は、そこに何かを描こうと思えば、いくら
でも描き足すことができるのだ。しかし、彼
は描かない。描かないことによって、鑑賞者
にその部分を預(あず)ける。「余白」は画
家と鑑賞者の共有の空間なのである。そして
「余白」をそれぞれ が、想像によってどの
ようにうめるか、当の作品は作者と鑑賞者、
双方の「せめぎあい」にかかっている、とい
ってもよかろう。「そこをなんとか」するこ
とにより、日本の芸術も、その価値を決めら
れるわけである。

(森本哲郎の文章による)