ヒイラギ の山 8 月 2 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。ルビ付き表示

○自由な題名
○私の好きな遊び
○私の好きな場所、私のくせ
○私の好きな時間
★みなさんには、まだ字を(感)
 【1】みなさんには、まだ字を読めないころの読書体験がありますか。いや、これは矛盾していますね。字を知らなければ、読書はできない。言い直しましょう。【2】字が読めないことを意識しつつページをめくり、「ここには何が書いてあるのだろう」と思い、もどかしい興奮をおぼえたことがありますか――ちょうど開(あ)かずの間(ま)の戸を見るように。
 わたしにはあります。【3】雑誌だったか、その付録だったか、とにかく兄の本です。そこに「漫画の描き方」のようなものがのっていました。しかし、字は読めない。だからこそ、想像を絶するほどおもしろかったのです。で、また矛盾したことを申し上げましょう。【4】そのおもしろさを、想像してみてください。そこにあったのは、実に不可思議な世界です。技法説明のため、さまざまな表情や姿がならんでいました。かと思うと、それらを生み出す、裏方のペンやインクの絵が描いてあったりします。
 【5】わたしが一番強烈におぼえているのは、こういう場面です。古い漫画の手法では、人が歩いた後に、マッシュルームを横にしたような印が、次々についていきます。砂ぼこりの象徴なのでしょう。【6】さて、その本の中の人物は、ほこりマークを現実にあるもののように扱っていたのです。手に持っていたのかもしれません。拾い集めていたか、あるいは、歩く人物の後ろに置いていったのかもしれません。【7】そうやって、描き方を説明していたのです。なんとも奇妙な絵でした。「ここに書いてある字が読めたらなあ」と、強く思いました。どういう部屋のどのあたりにすわっていたかも含めて、その時の記憶が鮮やかにあるのです。【8】小学生になってからも、時々、あの漫画にもう一度会いたいと思いました。
 さて、「漫画の描き方」は、本来の目的からいえば、鑑賞のためにあるのではなく、実用のためにあるものです。【9】しかし、わたしにとって、それは謎に満ちた物語、通常の音階を持たぬ歌だったのです。これこそ、本というものの持つ力ではないでしょうか。た∵とえば、夏目漱石の読み方に、これという絶対の正解があるのなら、われわれは、その答えを人から聞けばいい。【0】しかし、漱石への対し方は読者の数だけあります。
 下手な手品は一方からしか見られないといいます。しかし、魔法は、上から下から斜めから見ても、人の後ろに立って見ても、遠く離れて望遠鏡で見ても魔法でしょう。ある人には、胸のポケットから取り出したものが蝶と見え、また、ある人には蜂鳥と見える。しかし、どちらも真実なのです。
 つまり、本を読むというのは、そこにあるものをこちらに運ぶような機械的な作業ではない。場合によっては、作者の意図をもこえて、我々の内になにかを作り上げて行くことなのだと思います。
 しかし、仮にあげた例は、あくまでも例なので、今あの時の「漫画の描き方」が手に入ったとしても、それは昔のかがやきをもったものではないでしょう。幼い日に読んで血をわかした本が、後年(こうねん)読み返してみると、思いの外(ほか)につまらなかったりすることは、間々あるものです。けれども、砂時計を手に取りひっくり返すように、あるときからは、また新しい砂が積もりだすものです。中学生の時、読んで少しもおもしろくなかった本の妙味が、年を重ねることによってわかるようになったりもします。
 そういう読みにたえられる、厚みを持ったものが、古典です。
 手ごわい相手、理解できない書に行きあたると、文字の読めない幼児のように、その昔に帰ったようにもどかしく、「この本が読めたら」と足ずりしたくなります。歯の立たないものをかんだようなつもりになって、見当違いの解釈をすることも多い。だが、わたしにとっては、それこそが読書の楽しみなのです。

 (女子学院中)