ジンチョウゲ2 の山 8 月 2 週
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○自由な題名


○There are those who(感) 英文のみのページ(翻訳用)
There are those who scoff at dreams and call them a waste of time. But dreams are as much a part of you as the beating of your bean. The gift of dreaming, of fantasizing, is precious because it expands one life into countless other lives, like a myriad blossoms on a single branch. Those who cannot dream are to be pitied by those who can. They will never know the magic of slipping through from Realtime into Dreamtime : of seeing through dimension after dimension unknown to our five senses, as though one curtain after another was drawn aside to reveal a passionate world of colours, deeds, achievements and abilities.
All people throughout history have known the importance of dreaming. When their dreams have been recorded we call them myths, or legends, or fairy stories. They are pan of the treasure of our secret world, able to transport us instantly to Valhalla or olympus. They explain to us everything we long to know, and give substance to our instinct that there are worlds beyond our world.
Dreaming, or fantasy, is our only escape from reality until we pass through those great gates which lead to the ultimate dream. And yet there is only a shadow curtain between reality and fantasy. The fantasies of the past are the realities of the present. In l903, H. G. Wells wrote a book entitled The First Men in the Moon, and his contemporaries enjoyed it as a flight of fantasy. But, within the lifetimes of many humans born in 1903, the first men actually walked on the moon. No doubt we will see many other Wellsian fantasies change to reality, and perhaps travel through time as easily as we now travel through space.
Everything we accept as part of our lives was once a fantasy. The mythical or legendary beings could travel in chariots without horses, speak to each other across the universe, make fire obey them, and cure diseases with their magical powers. We have automobiles, aeroplanes, electricity, radio, laser beams, miracle drugs and submarines. Our human ancestor regarded a11 such things as fantasies.
A scientist might deplore the notion that there is any link between science and fantasy, but fantasy always comes first. It is the creature of imagination, and without imagination there would be no science. Every invention is the result of fantasy.

★ともかく正しいこと(感)
 【1】ともかく正しいこと、しかも百パーセント正しいことを言うのが好きな人がいる。非行少年に向かって「非行をやめなさい」とか、「シンナーを吸ってはいけません」とか、忠告する。煙草を吸っている人には、「煙草は健康を害します」と言う。【2】何しろ、誰がいつどこで聞いても正しいことを言うので、言われた方としては、「はい」と聞くか、無茶苦茶でも言うより仕方がない。後者の場合だとすぐに、「そんな無茶を言ってはいけません」とやられるに決まっているから、まあ、黙って聞いている方が得策ということになる。
 【3】もちろん正しいことを言ってはいけないなどということはない。しかし、それはまず役に立たないことくらいは知っておくべきである。たとえば野球のコーチが打席にはいる選手に「ヒットを打て」と言えば、これは百パーセント正しいことだが、まず役に立つ忠告ではない。【4】ところが、そのコーチが「相手の投手は勝負球にカーブを投げてくるぞ」、と言った時、それは役に立つだろうが、百パーセント正しいかどうかは分からない。敵は裏をかいてくることだってありうる。あれもある、これもある、と考えていては、コーチは何も言えなくなる。【5】そのなかで、敢えて何かを言うとき、彼は「その時その場の真実」に賭けることになる。それが当たれば素晴らしい。もっとも、はずれたときは、彼は責任を取らねばならない。
 【6】このあたりに忠告することの難しさ、面白さがある。「非行をやめなさい」などと言う前に、この子が非行をやめるにはどんなことが必要なのか、この子にとって今やれることは何かなどと、こちらがいろいろと考え、工夫しなかったら何とも言えないし、そこにはいつもある程度の不安や危険がつきまとうことであろう。【7】そのような不安や危険に気づかずに、よい加減なことを言えば、悪い結果が出るのも当然である。
 ひょっとすると失敗するかもしれぬ。しかし、この際はこれだという決意をもってするから忠告も生きてくる。【8】己を賭けることもなく、責任を取る気もなく、百パーセント正しいことを言うだけで、人の役に立とうとするのは虫がよすぎる。そんな忠告によって人間が良くなるのだったら、その百パーセント正しい忠告を、まず自分自身に適用して見ると良い。【9】「もっと働きなさい」とか、「酒をやめよう」などと自分に言ってみても、それほど効果があるものではないことは、すぐわかるだろう。
 もっとも、自分はその通りにやっているし、効果もあげている、という立派な方も居られるが、そこまで立派な方は人間を通りこし∵て、既にホトケになって居られるのだろう。【0】ホトケに「こころの処方箋」など不要なのはもちろんである。実際、いつどこでも誰にでも通じる正しいことのみを生きていては、「個人」が生きていると言えるのかどうか疑わしい。それは既にホトケになっている。
 百パーセント正しい忠告は、まず役に立たないが、ある時、ある人に役立った忠告が、百パーセント正しいとは言い難いことも、もちろんである。考えてみると当り前のことだが、ひとつの忠告が役立つと、人間は嬉しくなってそれを普遍的真理のように思い勝ちである。たとえば、次のようなこともあった。
 ある宗教家が「死にたいと言う人に、本当に死ぬ人はない」と思い込み、(こんなことは決して断言できない。「死にたい」と言って自殺する人は沢山ある)「自殺をしたい」と言う人に、それなら自殺の仕方を教えてやろうと詳細に死に方を教えてやると、その人はびくついてしまって自殺を断念した。それに味をしめて、その宗教家が次の人にも同じ手を使ったら、その人が言われたとおりの方法で自殺をしてしまったので、自殺の方法を教えた宗教家は、すっかり落ち込んでしまった。
 これは極端な例であるが、このようなことは、あんがいよく生じる。これは、一回目のときには、相当に自分を賭けて言っているのに、二回目になると、前のようにうまくやってやろうと思って、慢心が生じたり、小手先のことになって、己を賭ける度合が軽くなっているために、うまくゆかないのである。前と同じようにやろう、などと言っても、考えてみると人生に、「同じこと」などあるはずがないのだ。もちろん、「昨日も七時に朝食を食べた、今日も同じように……」というレベルでなら、同じことは存在し、朝食のパンを毎朝正しく焼くことも可能であろう。しかし、ある個人の存在が深くかかわってくるとき、そこには同じことは起こらなくなってくるし、まさにそのときに、その人にのみ通じる正しいことが要求され、それは、一般に人が考えつく、百パーセント正しいこととは、まったく内容を異にするのである。………
 ここに述べられたことは、百パーセント正しいことである、などと読者はまさか思われないだろうが、念のために申しそえておく。
(河合隼雄「心の処方箋」の文章による)