ニシキギ の山 9 月 2 週
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○自由な題名

○おかしかった思い出、わたしの好きな勉強

 堤防(ていぼう)ができると

 堤防(ていぼう)ができると、人びとは安心して、まわりの土地にあつまってきます。森林や水田がつぶされて、家や工場がたてられます。いままで、水につかっていた土地にも、たてものがたてられます。そのぶんだけ水はいちどにどっと、川へおしよせることになりました。そのぶんだけ、川のこうずいがふえたのです。水のいきおいもましたのです。
 それでも川は、けんめいにがまんしてくれました。でも十年か二十年に一度、大雨がやってくると、川はついにおこりだしました。
「おれの領分(りょうぶん)の土地をよこせ。土地はもともと川のものなのだぞ。」と。
 しかし人びとは、どうしても川をおさえこもうとしました。だれもが、水につかるのはいやでした。「堤防をもっと高く。」「もっとのばせ。」とさけびました。堤防は上流へ、支流へとどんどんのびていきました。
 堤防が上流や支流へのびると、そのまわりの土地もひらけました。町は大きくなり発展しました。こんどこそだいじょうぶだろうと、だれもが考えました。何十年かたちました。するとまたまえには考えられなかったような大水害がおこりました。ふった雨がもっとたくさん、川へすてられることになったからです。
 大水害は何十年、何百年に一度やってきます。いまのところしずかな川も、このさき、どんな大あばれをするかしれません。そして、いたちごっこは、いまもつづけられているのです。
 みなさんはもう、このへんで川の見かたが、かわってきたと思います。もういちど川へでて、川のようすをかんさつしてみましょう。川の水は、ふだんは、すこししかながれていませんね。雨が、いちどにすてられてしまうからです。ふだんは、すこししかながれないのに、堤防は高いですね。大雨のときには、それほどの水が、川いっぱいにおしこめられて、海へとっしんしていくということです。

「川は生きている」(富山和子)より抜粋編集

★イギリス人は犬を躾けることが(感)
 【1】イギリス人は犬を躾(しつ)けることが上手である。私の家の前が英国大使館の公邸で、三年ごとに交替するどの家族も、必ず犬をつれてくる。もう七、八家族かわったと思うが、来る犬来る犬が実に見事と言う他ないほどぎょうぎがよい。
 【2】家の中で不必要にほえたてたり騒いだりすることがないどころか主人と連れ立って散歩する時でも実におとなしい。よその犬と行き会っても、ほえもしなければ駆け寄ることもしない。【3】主人の傍らについて前を見てただ黙々と歩いていく。むろん引綱も鎖もなしである。
 これに比べると日本人の犬は、こちらが恥ずかしくなるほどめちゃめちゃである。跳びかかったり、ほえたり、大きな犬の場合など主人が押さえるのに苦労する。【4】犬に引かれて、小走りになる人も多い。狭い道で犬をつれた日本人同士が出会う時がこれまた面白い。小さな弱そうな犬をつれた人は、横道にそれたり、引き返すことさえある。【5】女の人などは、つれている小さな犬をかばって抱き上げ、足早に通りすぎて行くこともしばしばである。
(中略)
 このようなはっきりした違いは一体何が原因なのだろうか。【6】私の考えでは人間と動物のお互いの位置づけが、イギリス人と日本人ではまったく異なることから出発していると思う。
 日本人は、犬、猫そして馬のような家畜を人間の完全な支配下に位置するもの、人間に従属する存在とはみなしていない。【7】もちろんこのような動物を世話し、餌をやり、利用するために殺すというような外見的な面では日本とイギリスでもさほど目立つ相違はない。
 日本人にとって犬はそれ自体自由な自律的な存在なのである。【8】日本人のペットとか家畜という考えは、このようなお互いに独立した主体的な存在としての人間と犬が交差したところに成立してい∵る。実際ごく最近まで犬をつないでおくとか囲いに入れておくという習慣は日本にはなかった。【9】犬はあたりを自由勝手に歩き回り残飯やごみをあさる。
 勝手口に現れる犬に餌を与えているうちに、いつのまにかうちの犬になることもしばしばであった。二軒以上の家で同じ犬をうちの犬だと思っていたなどということもあった。【0】また犬は家の人の知らぬ間に、縁の下などで子供を生む。これも犬の勝手である。ところが家人にとっては、いりもしない厄介者をしょい込むことは困る。こんな場合に、犬を最も人通りの多い橋のたもとなどに捨てに行くのだ。
 捨てる人は、いらぬ犬を自分の生活圏から遠ざけて、不必要なかかわりを絶つことだけが目的で、その犬を何も殺すことはないのである。人通りが多ければ、誰か仔犬を欲しい人がいて、拾って行くかも知れない。事実、多くの家で犬を飼うようになるいきさつは、子供が拾ってきたからしょうがなく、置いてしまったというのが多かった。
 イギリス人は家畜とは人間が完全に支配すべき、それ自身は自律性を持たない存在と考えている。犬は人間が人間のために利用する従属的な存在であるから、逆に一切を面倒見る責任が人間にある。不要な犬や、回復の難しい病気にかかった犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも支配者としての人間が決めてやるべきだという考えに基づいている。
 だから日本人のように、犬を捨てたりすると、人間としての責任をはたしていないと非難するのだ。従って彼らにとっては、犬を安楽死させることが正しい犬の扱い方となる。一口に言えば、徹底的な人間中心的動物観なのである。何が残酷で何が残酷でないかは人間のきめることなのだ。だから一般にヨーロッパ人の残酷という考∵えは温血動物止まりなのである。
 そこで日本で犬が捨てられるといって、犬のために悲しむイギリスの婦人も、大正エビは生きたまま熱湯に投げ込んで料理するのが一番よいと言って平然としている。また食べるためでなく、楽しむために魚を釣るのも残酷ではないのだ。大きなカジキマグロと何時間も海の上で全力を尽くして戦うことは素晴らしいスポーツなのであって、魚が苦しむだろうと考えないのも同じ理由である。
 もちろんイギリス人でも日本人でも、一般の人はいま述べたような動物観、生命観をはっきり意識しているわけではない。聞けばいろいろと理屈づけはするだろうが、人々を無意識に動かしている基本的な価値体系の枠組みというものは、実は深くかくれているのである。
 日本の南極観測隊が、氷にとじ込められてヘリコプターでやっと脱出した時、連れていった樺太犬を置き去りにしてきたことがあった。この時も日本はむろん、外国からも非難の声があがった。
 隊員たちは、ただ可愛がっていた犬たちを殺すにしのびなかったのである。誰も犬どもが翌年まで生きのびようとは考えなかった。それでも殺す気にはなれないのだ。ところがどうであろう。翌年観測隊が再び昭和基地を訪れたとき、二頭が生存していたのだ。殺さなくてよかったと隊員達は思ったに違いない。人間本位、人間中心の家畜の始末法とは違い、ここでは日本人の動物処理法の方が勝ったのである。少なくとも、犬の幸福を中心に考えればである。