フジ2 の山 10 月 2 週
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○自由な題名
◎木登(きのぼ)りをしたこと
○私の趣味、将来なりたいもの
★自分のよさを見つけて(感)
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【1】自分のよさを見つけていくというのは、案外に、他人のよさを見つけていくことよりも、難しい。だれでも、多少はうぬぼれはあるものだが、自分のよさを見つけていくのは、それとまた別だ。
【2】たいていは、よいところといやなところは、重なりあっているものだが、他人については、そのよさが目だってうらやましく、自分のほうでは、いやな部分が目について、それを他人にかくしたくなる。
【3】なにごとにも、よいことと悪いこととが重なっていると言っても、それを恐れて、なにもしないのは、もっと悪い。自分に、よさと悪さが重なっていても、それを人に見せまいと思ってかくしているのは、もっと悪い。
【4】中学生あたりでは、自分にはイヤな性格があると思いこみ、それを他人に見せまいとイイコぶるのに疲れはてていることが、よくある。イヤなところを見せては、他人にきらわれるのではないかと、それがこわくて内にひきこもっていることもある。【5】実際はたいてい、イヤなところを見せるより、イヤなところを見せまいと引きこもってるほうが、よほど他人にきらわれる。
それに、そのイヤなことというのは、自分が思うほどには、他人にいやがられるものではない。【6】かりに、本当に他人にきらわれるとしても、そこをさらけだして、あの人はいやな人だ、しかし、おもしろい人だ、とまでならなくては、一生イジイジし続けねばならない。【7】そして、なんのイヤミもないと他人に好かれる、というのは、あまりないし、あってもたよりない感じで、イヤなところがあるが気に入った、といった目で見られるようになるほうが、ずっと味のある人柄になる。
【8】だれにも悪口を言われないようにしている人というのは、そのこと自体で、みんなからよく思われない。【9】他人を意識しはじめた中学生のころに、他人の悪口が特別に気になるのは仕方がないにしても、悪口を言われないようにしようという、その態度自身が他人の悪口の材料になりやすい、という事実には早く気づいたほうがよい。
【0】少し楽観的なのかもしれないが、人間というものは、本来はそれぞれの性格を持ち、それぞれの才能や容姿を持ち、それはいいところと悪いところが重なりあって、他人から見れば好かれたりきらわれたりしながらも、それがそのまま生きていれば、たいへんおもしろいものだ、とぼくは考えている。人間がその人らしく生きているさまというのは、すべておもしろい。
自分は、自分のようにしか生きられない。そして、本当にそのよ∵うに生きているのは、おもしろい。他人よりもまず、自分が自分をよく見ることができれば、自分にとっておもしろい。そして、これがぼくの一番楽観的なところかもしれないが、本当に自分を楽しんでおもしろく生きている人は、他人が見てもおもしろい。そして、他人だって、おもしろいからには、きみを好ましく思ってくれるはずだ。
才能や容姿だって、自分自身を出したほうが、ずっとよい。たとえば、アメリカの黒人は、昔は白人のようになろうと、肌を白くしようとしたり、髪の毛をまっすぐしようとしていたが、それは少しも美しくなかった。黒人が美しくなりだしたのは、ブラック・イズ・ビューティフルと、自分自身を出しはじめてからである。そしていまでは、テレビのコマーシャルでも、黒人が魅力的な姿を見せている。自分を出しているものは、美しいのだ。
いろんな才能だって、その人にしかない味が出せるのが最高だろう。日本の昔の芸人などで、芸が好きでその道に入ったものの、不器用で才能がないと言われ続け、それでも芸から離れられずにいるうちに、ふと気づいてみると、他のだれとも違った味を持った名人と言われるようになっていた、なんて話がある。それをべつに、努力精進のかいあって、なんて芸道物語にする必要もあるまい。その人の味が、その人の芸と一体化してきたとき、不器用で才能がないように見えても、みんなが感心するような芸人になってしまっていたのだ。
もちろん、若い間は、普通の意味で才能があったり、普通の意味で容姿がととのっていたり、普通の意味で性格がよかったりしたほうが、楽に世がわたれる。しかし、一生がそうというわけでもない。
それに、かりにいま、そうした点で本当に他人から低く見られているとしても、その自分を出して、自分にしかないタイプで進んだほうが、自分の才能はよりよく開花する。自分自身の容姿の特性を生かしてくらしたほうが、より美しくなれる。自分の性格をかくすことなく他人とつきあったほうが、他人がきみをもっと認めてくれるようになる。
(森 毅(つよし)「まちがったっていいじゃないか」より)