黄ウツギ の山 11 月 2 週
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○自由な題名
◎窓
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★岩手県宮守村の(感)
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岩手県宮守村の県立遠野高校宮守分校に新任の教頭として赴任したのは昭和六十二年四月、いまからちょうど十年前のことだった。一学年の定員は四十五人だが、生徒数は三学年合わせても六十数人と定員の半分にも満たない。非行グループが横行し、村民の子供が分校への進学を嫌がる荒れた学校だった。
分校の校長は遠野高校の校長が兼務するから、私はいわば現場責任者ということになる。着任前、一人で様子を見に行って驚いた。たぶん県下で一番老朽の木造校舎だろう。グラウンドやテニスコートを枯れ草が覆っている。校舎の窓ガラスはことごとく曇りガラスになっていて、クギを打ちつけて開けられないようにしてあった。
現実は想像以上のひどさだった。保健室で男子と女子生徒が一つのベッドで寝ている。スカートの丈を長くしたスケバンがいるし、番長もいる。喫煙、暴力、いじめ、さぼり……。まるで“非行のデパート”ではないか。「授業ができません、学校に来るのがつらい」。若い教師が嘆いた。
為さねばならぬ――単身赴任の私は、睡眠時間を除くほとんどの時間を分校の公務と活性化のために費やすことにした。しかし、時間は限られている。私は百日闘争を宣言した。正常化の時限を三か月余と区切ったのである。
刑務所のような印象の曇りガラスを透明なガラスと取り換えると、教室に明るい陽が差し込んできた。だが、案の定、生徒たちはおとなしく見守ってはいない。私に呼び出しをかけてきた。教室に行くと、イスに二人掛けしたり、床であぐらをかいている生徒たちは、「教頭はこの学校から出ていけ」と罵声を浴びせるのだ。
私だって腹を据えている。逆に、「君たちはこのままでは社会に出しても通用しない。いや、社会が汚れる。私は君たちの母校であるこの学校を良くしたい。君たちに力をつけ、いい進路につけさせたい。確かに施設も悪い、校舎もボロだ。それを乗り越える努力を私も一生懸命にするから、君たちも立派になったといわれるようにしてほしい」と、生徒たちに訴えた。
スケバンの母親に学校に来てもらったこともある。母親に「お母さん、本物の母親の愛情は教師百人の力にも匹敵します」と、ある方法をアドバイスした。女子生徒が学校から帰ったら一切口をきかず、ただぼんやりテレビを見ている。食事の支度もせず、食物も口にしない――要するにハンガーストライキの勧めである。「それを三日間続けてください、娘さんは必ず変わります」
三日目、母親が泣きながら電話をかけてきた。「昨日の深夜、娘が突然『お母さん、ご飯食べでくれ』と泣きだしました。『ご飯を食べないのは、私が悪だからだべぇ』と私の手を取り、肩を揺するのです。親子で抱き合って泣きました。娘がつくってくれたお茶漬けを食べ、夜通し語り合いながら、娘の長いス力ートの裾を縫い直しました。娘はいま美容院に行って、茶に染めていた髪を黒くして登校します」
一人の女子生徒が自己変革を決意してくれたのだった。
(「致知」九十七年六月号 奈良憲光氏の文章より)