ヌルデ2 の山 12 月 2 週
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○自由な題名
○うれしかったことや悲しかったこと
○わたしのしているスポーツ

★電車のなかや教室などで(感)
 【1】電車のなかや教室などで、手もあてずに平気で大きなあくびをする人がふえている。電車のなかの携帯電話、お化粧、爪切り、飛行機のなかのマニキュアなど。
 【2】「夜中にアパートであついシャワーをあびる」「深夜も好きな音楽をたのしむ」など。
 これは本人しかいない内的世界ではそれもいいが、音がまわりにもれてくることも考えなくてはならない。【3】ウォークマンの音もれ以外にも似た現象はいろいろある。
 「サークルのなかで、親しいふたりが、いつもふたりだけで、とくべつ仲よくすることのどこがわるいか」という者もいる。【4】まわりの人はひがんでいるのだ、と思ってすませるつもりであろうか。
 狭いエレベーターのなかで、それまでの会話を声高につづける人もいる。
 【5】たばこの投げすて、ガムの投げすては駅員さんがいちいちひろっている。
 寿司屋の職人が、あいまにたばこを吸いながらすしをにぎっており、床屋のおじさんは、剃刀を片手にテレビを見ている。
 【6】いつかタクシーのなかの株式情報が耳ざわりだったので、「ラジオを小さくしてくれませんか」と言ったら「なんでや?」と聞き返してきた、運転手がいた。
 【7】謝恩卒業パーティーなどで、先生方などまったく無視して、ごちそうの前にはりついている盛装の学生も少なくない。
 これらは、自分のしたいことを好きなときにして、人には「迷惑はかけていないつもり」のしぐさの例である。
 【8】人に迷惑をかけてはいない、というのはまだ「消極的な生き方」であり、だれかを積極的に思いやるとかだれかにまなざしを投げかける、というのとはちがう。だれかにまなざしを投げかけるとは、やさしさを相手にふりむけることであり、これはより「積極的な生き方」なのである。【9】これらすべての例において、多くのひと、とくに独身貴族といわれる人びとは、だれか特定の相手に直接には「迷惑をかけていない」つもりでいるのであろう。
 【0】しかし、およそ、ひとに迷惑をかけてはいないつもりだ、ということは、せいぜい言いわけ程度の生き方である。これに対して、∵だれかを思いやるとか、たしなみのこころを持ち、つつしみ深く生きる、ということとは、月とすっぽんくらい違う生き方であり、プラスとマイナスの違いがあるのであり、両者は決して同じことではない。
 わたしは街をよごしていない、というだけの人と、積極的にみぞ掃除をする人はちがう。吸いがらを駅のホームに投げすてていないというのと、毎朝ひろっている人とはちがう。
 もともとわれわれの自由には二つある。ひとつはしたいことをする自由である。「そうする」自由と権利がわれわれにはある。しかし、自分の選択で、たとえそうできることでも、自分はあえて「そうしない」という自由もある。たとえばせまい診療所の待合室では、あえてたばこを吸わないのは、その人のやさしさであろう。むかし、田舎では、秋の柿の木の実をわざといくつか残しておいて、烏などに食べさせることにしていた。(中略)
 たしかに公衆道徳は低下した。ひとには迷惑はかけていないつもりの人が何と多くなったことであろう。そういうことはしない、という思いやり、つつしみ、やさしさをまわりにふりまくひとがいなくなったら、その社会はほろびる。
 しかし、社会、国家もいまそういう方向へむかっているのではないか。ひとこと声をかけるとか、少し相手にもまなざしを向けることが、いま求められている小さな積極性であろう。外食も、音楽も、おしゃれもすべていま風にというのは、けっこうであるが、それだけではまわりに友人をつくることはできない。
 いま日本は見えない坂を転げ落ちているのではないか。それは見えないからだれも知らないふりをしていることができる。そうして気づいたとき、すべてが終わっているということにならなければいいのだが。
 まじめな自分主義を超えて、もう一度人間としての「つながり」と「つらなり」に目を向けて生きる――これが市民として、いまわれわれ日本人に求められているのだ。

(小原信「シングル・ルームの生き方」より)