ネコヤナギ の山 1 月 3 週
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○自由な題名
○寒い朝、体がぽかぽか
★ソクラテス(感)
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【1】ソクラテス(紀元前四七〇~三九九年)は、おそらく哲学の歴史をつうじてもっとも謎めいた人物だろう。ソクラテスはたったの一行も書かなかった。なのにヨーロッパの思想に最大級の影響をおよぼした一人とされている。【2】ソクラテスがとんでもなくみっともない男だったことはたしかだ。チビで、デブで、目つきが陰険で、はなは空を向いていた。けれども心は「金無垢のすばらしさ」だったという。ソクラテスの母親はお産婆(さんば)さんだった。【3】そしてソクラテスは自分のやり方を産婆術にたとえていた。たしかに子供を産むのは産婆ではない。産婆はただその場に立ち会ってお産を手伝うだけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が正しい理解を「生み出す」手伝いをすることだ、と思っていた。【4】なぜなら本当の知は自分のなかからくるものだからだ。他人が接ぎ木することはできない。自分のなかから生まれた知だけが本当の理解だ。(中略)
【5】ソクラテスはソフィストたちの同時代人だった。ソフィストたちと同じようにソクラテスも人間と人間の生活を論じ、自然哲学者たちの問題にはかかわらなかった。(中略)【6】けれどもソクラテスは重要なところでソフィストたちとはちがっている。ソクラテスは、自分は知識(ソフォス)のある人間やかしこい人間ではないと考えていた。だからソフィストたちとは反対に教えてもお金を取らなかった。【7】そうではなくてソクラテスはことばの本当の意味で自分は哲学者(フィロソフォス)だと名乗ったんだ。フィロソフォスとは「知恵を愛する人」ということだ。知恵を手に入れようと努力する人のことだ。(中略)【8】哲学者は自分があまりものを知らないということを知っている。だからこそ哲学者は本当の認識を手に入れようといつも心がけている。ソクラテスはそういうめったにいない人間だった。ソクラテスは自分は人生や世界について知らない、とはっきり自覚していた。【9】そしてここが大切なところだよ、自分がどれほどものを知らないかということでソクラテスはなやんでいたのだ。哲学者とは自分にはわけのわからないことがたくさんあることを知っている人、そしてそのことになやむ人だ。だから哲学者はひとり合点の知識でもってはな高だかの半可通よりもずっとかしこいのだ。∵【0】「もっともかしこい人は自分が知らないということを知っている人だ」とはもう言ったよね。ソクラテスはこういう言い方もしている。わたしは自分が知らないというたった一つのことを知っている、とね。このことば、メモしておくこと。なぜなら哲学者たちのあいだでもこんな告白はめったにないからだ。さらにはこんなことをおおっぴらに言うのは、命にかかわるたいへん危険なことでもあった。いつの世にも疑問を投げかける人はもっとも危険な人物なのだ。答えるのは危険ではない。いくつかの問いのほうが千の答えよりも多くの起爆剤をふくんでいる。『裸の王様』の話は知っているよね? 本当は王様はまっ裸なのに家来のだれ一人そう言う勇気がなかった。ふいに子どもがさけぶ。王様は裸だ、と。勇気ある子どもだね、ソフィー。これと同じようにソクラテスは人はどれほどものを知らないかをはっきりさせた。裸だということをつきつけた。つまりこういうことだ。ぼくたちはふさわしい答えがおいそれとは見つからないような重要な問いをつきつけられる。ここから先、道は二つある。一つは自分と世界を全部ごまかして、知る値打ちのあることはすべて知っているみたいなふりをする道。もう一つは大切な問いには目をつぶって前に進むことをすっかりあきらめるという道。とまあ人間は二種類に分かれるんだね。少なくとも人間は思いこみが強くてかたくなか、どうでもいいや、と思っているかのどちらかだ。これはトランプのカードが分けられるようなものだ。黒のカードはこっちの山に、赤のカードはそっちの山にと積みあげていく。ところがジョーカーが出てくる。これはハートでもクラブでもないし、ダイヤでもスペードでもない。ソクラテスはアテナイのジョーカーだったんだ。彼は思いこみが強くてかたくなでもなかったし、どうでもいいと思ってもいなかった。ソクラテスは自分は知らないということを知っていただけだ。そしてそのことを思いつめていた。それでソクラテスは哲学者になったのだ。あきらめない人、知恵を手にいれようとあくことなく努める人に。
(ヨースタイン・ゴルデル)