ゲンゲ2 の山 2 月 3 週
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○自由な題名
○バレンタインデー、もうすぐ春が

○I think it was Conrad Hilton 英文のみのページ(翻訳用)
I think it was Conrad Hilton who first had the idea that travel would be greatly improved if as much of it as possible were spent in familiar surroundings. Faraway places with strange-sounding names are all very well, provided there are scrambled eggs for breakfast, air-conditioning, toilets that work, and people who speak English, even if they speak it with a curious accent. What the weary traveler needs after being up to his neck in foreigners all day is a drink with plenty of ice, a straightforward dinner menu that doesn't require all interpreter, a decent bathroom and a king-sized bed. Just like home.
The Hilton theory was, as everyone knows, a worldwide success. And this was for one very simple reason: even if you didn't always know where you were, you always knew what to expect. There were no surprises. A few touches of local color would creep in from time to time -- mangoes instead of orange juice, waitresses in sarongs instead of skirts -- but for the most part it didn't really matter whether you fell asleep in Tokyo or Mexico City. There was a certain standardization about the board and lodging that provided comfort and reassurance and familiarity even in the heart of the most exotic locations.
If the idea had stopped there -- as one among many travel options -- it would have been fine. Unfortunately, it proved to be so popular that it was adopted by one hotel chain after another, with varying degrees of local camouflage designed to add personality to a multi-national formula. With loud protestations that they were preserving the special character of each hotel they bought up, the new owners standardized everything that could be standardized, from bathroom fittings to color schemes, until the only sure way of knowing which city you were waking up in was to consult the phone directory as soon as you got out of bed.

★(感)デカルトが述べたことで
 【1】デカルトが述べたことで、もう一つ、科学の発展にとって非常に重要だったことは、世界の真実の状態と、われわれが五感で認識する世界の状態とは、必ずしも同じものではないかもしれないという指摘にある。【2】私たちは、地面の上に空が広がり、空は青くリンゴは赤いと認識するが、そうやって私たちが認識する通りのものが、まさに世界の物質の実体であるとは限らない、と彼は指摘した。
 このことも、デカルト以前の時代には、はっきりと認識されてはいなかった。【3】物体が落ちるのは、まさに「上から下」に向かって落ちるのであり、色には、私たちがみるとおりの「赤」なら「赤」の本質というものがあると思われていたのである。
 【4】事実は、万有引力の法則によって、物体が互いに引き合うのであり、「上から下」へは、たまたま地球が非常に大きいために、地上のものはみな地表に引きつけられるから起こることである。【5】色も、じつはいろいろな波長の電磁波であり、私たちの網膜の細胞に喚起されるインパルスの違いが異なる色として認識されるだけである。
 これは、デカルトのたいへんな慧眼であったと私は思う。人間は、なかなか、自分自身にとっての現実から逃れられないものだ。【6】自分の実感と世界の真の姿との間に、なんらかのずれがあるかもしれないなどと気づくのは、なみたいていのことではないだろう。
 しかし、そこでつぎにまた疑問がわく。私たちの世界の認識は、世界の真の姿とは関係がなく、なんら特別な根拠のない把握の仕方なのだろうか。【7】それとも、まったく同じものを把握しているのではないとしても、私たちの世界の認識は、なんらかの形で真実と対応した認識の一形態なのだろうか。つまり、私たちの世界の認識の仕方は、まったく無作為、任意の、たまたま偶発的になされる勝手なものなのか、それとも、なんらかの真実との対応をもっているものなのか、ということである。
 【8】これは、科学的知識の確かさについての、昔からの議論の題材である。さらに、最近のポストモダンの相対主義者ならば、科学も、ある個人の世界の認識も、すべては、単に一つの見方、勝手な構築にすぎないというのだろう。
 【9】しかし、私はそうは思わない。私たちが世界をどのように認知するかは、私たちという生物種が、ある特定の生態学的位置の中で∵生存していく上で、役に立つような仕方に作られているはずだ。私たちは、空を飛ばずに地上を歩く生物なので、三次元的なアクロバティックな運動や感覚には優れていない。【0】一方、昼間に活動する生物なので、色や明暗の認識には長けている。その意味では、私たちの感覚世界は制限を受けている。しかし、私たちの認識は、確かに、世界の真実の一部と対応している。
 ミミズは私たちとは大いに異なる生活様式をもっているから、私たちとは大いに異なる世界の認識をしているだろう。ミミズの認識する世界を、私たちは実感することはできないだろうが、ミミズの認識も、世界の真実の一部に対応しているはずだ。
 このあたりの認識世界のようすは、それぞれの生物の進化の道筋によって形成されているはずである。デカルトがダーウィンと話す機会があったとしたら、非常におもしろい会話が発展したことだろう。

(長谷川眞理子『科学の目 科学のこころ』より)