ゼニゴケ の山 2 月 3 週
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○自由な題名
○バレンタインデー、もうすぐ春が

○I think it was Conrad Hilton 英文のみのページ(翻訳用)
I think it was Conrad Hilton who first had the idea that travel would be greatly improved if as much of it as possible were spent in familiar surroundings. Faraway places with strange-sounding names are all very well, provided there are scrambled eggs for breakfast, air-conditioning, toilets that work, and people who speak English, even if they speak it with a curious accent. What the weary traveler needs after being up to his neck in foreigners all day is a drink with plenty of ice, a straightforward dinner menu that doesn't require all interpreter, a decent bathroom and a king-sized bed. Just like home.
The Hilton theory was, as everyone knows, a worldwide success. And this was for one very simple reason: even if you didn't always know where you were, you always knew what to expect. There were no surprises. A few touches of local color would creep in from time to time -- mangoes instead of orange juice, waitresses in sarongs instead of skirts -- but for the most part it didn't really matter whether you fell asleep in Tokyo or Mexico City. There was a certain standardization about the board and lodging that provided comfort and reassurance and familiarity even in the heart of the most exotic locations.
If the idea had stopped there -- as one among many travel options -- it would have been fine. Unfortunately, it proved to be so popular that it was adopted by one hotel chain after another, with varying degrees of local camouflage designed to add personality to a multi-national formula. With loud protestations that they were preserving the special character of each hotel they bought up, the new owners standardized everything that could be standardized, from bathroom fittings to color schemes, until the only sure way of knowing which city you were waking up in was to consult the phone directory as soon as you got out of bed.

★「大人」は一人前の社会人として(感)
 【1】「大人」は一人前の社会人としてさまざまな権利や義務をもつが「子ども」はそうではない。「子ども」は未熟であり、大人によって社会の荒波から庇護され、発達に応じてそれにふさわしい教育を受けるべきである。【2】そうした子ども観は、われわれにとってはほとんど自明のものである。しかし、われわれの子ども観がどこでも通用するわけではない。社会が異なれば、さまざまに異なった子ども観があり、それによって子どもたち自身の経験も異なってくる。【3】このことをアメリカの社会学者カープとヨールズは、次のような例を挙げて示している。
 例えばナバホ・インディアンは子どもを自立したものと考え、部族の行事のすべてに子どもたちを参加させる。子どもは、庇護されるべきものとも重要な責任能力がないものともみなされない。【4】子どもの言葉は大人の意見と同様に尊重され交渉ごとで大人が子どもの代弁をすることもない。子どもが歩き出すようになっても、親が危険なものを先回りして取り除くようなことはせず子ども自身が失敗から学ぶことを期待する。【5】こうした子どもへの信頼は、われわれの目には過度の放任とも見えるが、自分と他者の自立を尊重するナバホの文化を教えるのにもっとも有効な方法であるという。(中略)
 【6】今日のわれわれの子ども観、つまり「子ども」期をある年齢幅で区切り特別な愛情と教育の対象として子どもをとらえる見方は、フランスの歴史家、フィリップ・アリエスによれば主として近代の西欧社会で形成されたものであるという。【7】アリエスは、ヨーロッパでも中世においては、子どもは大人と較べて身体は小さく能力は劣るものの、いわば「小さな大人」とみなされ、ことさらに大人と違いがあるとは考えられていなかったという。【8】子どもは「子ども扱い」されることなく奉公や見習い修行に出、日常のあらゆる場で大人に混じって大人と同じように働き、遊び、暮らしていた。子どもがしだいに無知で無垢な存在とみなされて大人と明確に区別され学校や家庭に隔離されるようになっていったのは、十七世紀から十八世紀にかけてのことである。【9】アリエスはこのプロセスを「『子供』の誕生」のなかで、子どもを描いた絵画や子どもの服装、遊び、教会での祈りの言葉や学校のありさまなどを丹念に記述するこ∵とによって浮き彫りにしている。【0】アリエスらによる近年の社会史の研究は、われわれになじみの深い子ども観も、そして、人が幼児期を過ぎ、自分で自分の身の回りの世話ができるようになってからもすぐに大人にならずに「子ども」期を過ごすというライフコースのあり方自体も、歴史的、社会的な産物であることを明らかにした。
 西欧では「子ども」は、社会の近代化のプロセスにおいて、近代家族と学校の長期的な発展のなかから徐々に生み出されていった。一方、日本では、明治政府による急激な近代化政策のなかで、近代西欧の子ども観の影響を受けながらも、西欧とはやや異なったプロセスで「子ども」の誕生をみることになった。
 明治維新まで、子どもは子どもとして大人から区別される以前に封建社会の一員としてまず武士の子どもであり、町人の子どもであり、あるいは農民の子どもであった。さらに男女の別があり、同じ家族に生まれても男児と女児ではまったく違った扱いを受けた。たとえば武家の跡取りの子どもは、いつ父親が死んでも家格相応の役人として一人前に勤め禄を得ることができるよう早くから厳しい教育が施されたし、農民の子どもも幼いころから親の仕事を手伝い村の子ども集団に参加して共同体の一員としての役割を担った。近世後期以降、寺子屋や郷学が農村にまで作られそこで読み書きの初歩を習うこともあったが、それはあくまで日常生活に必要な知識にとどまり労働のなかで親たちから教えられる日常知と区別されるものではなかった。子どもたちは封建的区分のなかで、所属する階層や男女の別に応じてそれにふさわしい大人となるようしつけられた。
 明治五(一八七二)年の学制の公布は、そのようにそれぞれ異質な世界にあった子どもたちを、学校という均質な空間に一挙に掬いとり、「児童」という年齢カテゴリーに一括した。その意味で、わが国において「子ども」はまず、建設されるべき近代国家を担う国民の育成をめざして、義務教育の対象として、制度的に生み出されたということができよう。
 しかし、制度ができたからといって、「児童」という存在に対して当時の人びとがすぐさま今日のわれわれがもっているような「子ども」のイメージを抱いたわけではない。社会的・文化的な意味で∵「児童」という存在にある属性が付与され、近代的な「子ども」観が誕生するためには、学制という制度に加え、もうひとつ別の契機が必要であった。それが文学であった、と柄谷行人(からたにこうじん)は述べている。
 柄谷(からたに)によれば、「児童」は「風景」や「内面」とともに近代になって初めて発見された。「児童が客観的に存在していることは誰にとっても自明のようにみえる。しかし、われわれがみているような『児童』はごく近年に発見され形成されたものでしかない」。「児童」は明治末期小川未明をはじめとする文学者たちの夢としてあるいは退行的空想として見出された。今日、未明らの描いた「児童」は、大人によって考えられた児童であって、まだ「真の子ども」ではない、と児童文学者や教育者たちから批判されているが、実は未明らが賛美し描いた観念的な存在によってこそ「児童」は成立したのである。その意味で、「児童」がまず、夢や空想をともなう「ある内的な転倒によって見出されたことはたしかであるが、しかし、実は『児童』なるものはそのようにして見出されたのであって、『現実の子ども』や『真の子ども』なるものはそのあとで見出されたにすぎない」(「日本近代文学の起源」)。いわば、近代になって人びとの子どもに対する認知の構図が変化したため、新しい輪郭をもった「子ども」という存在が浮かび上がってきた。柄谷(からたに)は、文学という制度のなかにこの重大な認知の図式の変化が生じたと考え、「児童」はまず文学者のロマン主義的観念として生まれたと主張するのである。