ネコヤナギ2 の山 3 月 3 週
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○自由な題名
○この一年、新しい学年
★(感)若い人たちにとっては
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【1】若い人たちにとっては、自分の才能がどこにあるのかとか、はたして自分になんらかの意味で才能というものがあるのか、ということは非常に大きな問題だろうと思います。【2】それで、世の中で成功した人を見ていると、はじめから才能が満ちあふれていて、何もまよいなくその道にずっと邁進してきたように見えるかもしれない。
いや、なかにはそういう人もいるだろうと思います。【3】モーツァルトとかベートーベンとか、あるいはゴッホとか、たしかにいるとは思いますが、しかしそれはほんとに何億人に一人の希有な例であって、ほとんどの人はそうではない。
【4】現に例えば、音楽家で、あるいはシンガーとして成功しているとか作家として成功している、あるいは大会社の社長になっている、証券界でディーラーとして何百億円もの利益を上げているとか、そういうふうに成功している人をみると、【5】何か揺るぎないものがあるようにみえるけれども、しかし、そういう彼らにしてからが、おそらく、十代のころとか、大学を出てから数年の間のいわゆる若い時代というのは、きっと、はたして自分はこの道に進んでよかったのだろうかとか、【6】ほんとは自分は別のところに才能があるんじゃないだろうかとか、もっと自分にとってよい人生がどこかに用意されているような気がする、とかいうような気持ちの揺れというかまよいのようなものは、かならずあったに違いないんです。
【7】だから、はじめから自分の才能はこの程度だ、とかいうふうに、自分で自分を決めつけてしまうことは、一種の敗北主義で、もう闘わずして敗れているようなものです。
【8】一つの目安としては、三十歳までに一つの方向が見えてくれば、その人にとっては、見極めは早いほうだ、とそのくらいの巾で考えておくといいだろうと思います。
【9】昔のように、例えば、小学校を出たらすぐ社会に出て、丁稚奉公(ぼうこう)からはじめて、というようなことであれば、これは二十歳にな∵るころには相当社会経験を積んだ、一人前の社会人になり得るということだけど、いまは大半が大学まで行くような世の中になってきたので、おのずから状況が変わったんです。
【0】つまり、大学の卒業まではモラトリアムですから、とくに何も決めなくても構わない。
そうすると、大学卒業が間近となるまで、あるいは就職というものが目の前にぶら下がってくるまでは、誰も、はたして自分の才能はいずこにありや、なんていうことはそれほど切実に考えないですむわけです。
ほんとうに切実に考えるのは、卒業が間近になったころ、あるいは、卒業して実際に社会に出てから、何かで挫折感を味わって、そこではじめて、ウームこれでよかったのかと考えるチャンスがやってくる。つまり二十歳から三十歳の間ぐらいのところが一番いろいろ揺れ動くところじゃなかろうかと思うんですね。
才能というものは、実際はブラックボックスのようなもので、本人が、俺はこれに才能があると思っているにもかかわらず、全然才能のない場合もあり、本人は思いもかけないのに、たいへんに才能があるという場合もあって、かならずしも、自己評価と、人から見た評価とは一致しないものです。そこに才能というものの、やっかいにしてしかしおもしろいところがあります。
だから、私の意見はこうです。
才能がどこにあるかは今すぐ自分だけでは分からないし、また、どの程度の才能であるかも測れないけれども、しかし、たしかにそれぞれの人にはそれぞれの人の才能というものがあり、得意・不得意、得手・不得手というものがあることも動かない事実です。そうでしょう?
(林望『魅力ある知性をつくる24の方法』による)