ゼニゴケ の山 3 月 3 週
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○自由な題名
○この一年、新しい学年

○My local newspaper 英文のみのページ(翻訳用)
My local newspaper recently ran a feature article headlined, "The Great American Bag Race," which I found both interesting and amusing in ways that neither the author nor the editor probably intended. The subject was the relative merits of paper and plastic grocery bags; the discussion included the reasons why many customers and grocers vehemently prefer one or the other, and the fierce economic competition between manufacturers of both.
Just a few years ago, practically all grocery stores in this country routinely stuffed a customer's groceries into paper bags. In the early Eighties, plastic bags began to replace them in some places. By the time I sat down to write this, the two competitors were running neck and neck, with roughly equal numbers of paper and plastic bags in use.
The article I mentioned reached no clear conclusion about which kind of bag was better overall, but it made clear that both kinds of bags contribute to the problems of resource consumption and solid waste disposal. The difference between them in terms of environmental impact is one of degree -- and, when you come right down to it, pretty trivial. Ironically, neither the author nor anyone quoted in the article even hinted that there might be another option that offers much more significant advantages over either kind of bag.

★そういう「定着文化」というか(感)
 【1】そういう「定着文化」というか、うごかないことがよしとされる日本で育ったわたしは、長じてアラビアでのフィールドワークをするようになったとき、そうではない文化、「移動文化」ともいえるものにぶつかり、ある種のショックを受けた。【2】といっても、それは異文化からきたわたしだから「ショック」なので、その人たちにとってはごく当り前のこと。おどろきでもなんでもない。【3】わたしのフィールドのように自然条件・社会条件がきびしいところでは、しんどいことの連続なのだが、こういうおどろき、異質さの魅力というものに惹かれてなんとか今日までやってこられたようにおもう。
 【4】アラビアの砂漠では、昼間の暴君である太陽が、夜のやさしさにその支配権を渡し、やっとおだやかな夜がおとずれると、わたしもみなといっしょにほっとしたものだった。【5】砂の上に横たわり、ねぶくろから顔だけ出してアラビアの星たちと交信するのも、楽しみのひとつだった。研究の対象はもちろん天の星ではなく、地上の遊牧民、ベドウィンだったが、かれらの移動について調査していて、どうもよくわからないことがでてきた。【6】なぜ移動するのだろう。うごく必要はないではないか。水、草、子どもたちの学校、そのほかの生活の条件は同じ、あるいは悪くなるかもしれないのに、うごくことがあるのだ。
 【7】このあたりのことは、先に「アラビア・ノート」(NHKブックス、一九七九年)で少しふれたが、「どうしてなの」ときくわたしに、「なにもかもよごれてしまったからね」という答えがかえってきた。これだけではどういうことかよくわからなかった。【8】フィールドワークをしていると、言葉のやりとりだけではわからないことがたくさんあった。当然のことである。人は、言葉だけでわかりあうわけではない。
 一年ほどいっしょにくらすうち、砂のまじった食事も気にならなくなるのと同時くらいにかれらの「移動の哲学」がわかってきた。【9】体系的なものを哲学としてもっているわけではないが、かれらは人間がひとつのところにじっとしているのは退行を意味すると感じているのである。
 ひとつのところで生活をしていると、ごみが出てくるとか、死人が出たというような物理的なよごれもあるのだが、人間の心のほうもよごれてくる、よどんでくるように感じているようなのだ。【0】うごくことによって浄化されるという感覚をもっている。これはセム族の中に古くからあるものとつながっているようでもある。「旧約∵聖書」にも、荒野を放浪し、きよめられたもののみカナンの地に入れるという思想がみいだされる。いずれにしろ、うごくことによって浄化されるのだというおもいが、ふつふつとからだのなかにわいてくるようなところがあるようだ。 (中略)
 そういう元遊牧民たちだけでなく、オックスフォードやハーバードに留学したようないわゆる「都会の遊牧民」といえるアラビア人たちのなかにも「動の思想」はビルトインされているようである。政府の役人でも、一カ所にじっとしている人は少ない。あちこちに港すなわちオフィスをもっていて、風のように来ては去るのでつかまえるのに苦労する。ポケットベルがよく売れており、コードレス電話も日本で普及するよりはるか前から人びとのあいだで使われていた。よくうごくかれらは、これらを使ってビジネス上の連絡をとるというよりは、家族や友人、親類と連絡をとり、おしゃべりを楽しんだりするのである。職をかえることも日常的なことである。
 日本人の終身雇用の話をすると、目をまるくしておどろき、就職するときに「絶対うごきません」というような契約をしてしまうのかとたずね、けげんな顔をする。いや、そんな契約はしないが、ほとんどの人はうごかない、一生、同じ職場で仕事をするのだというと、ますますおどろかれてしまう。
 からだも心もうごいていくことを前提とするかれらは「ハサブ・ル・ズルーフ」という言葉を日常生活のなかでよく使う。「そのときの状況しだい」という意味である。すべての「時間」は「現在」に集約されると考え、大事なのは、同じ時間を同じ空間でわかちあっているこの瞬間、現在しかないのだという。明日はこうしようとおもっていても、次の朝起きてみると状況がうごいているかもしれない。母が危篤とか、本人が熱を出したとか、そういうときはその状況にしたがって行動するしかない。そこで約束事には、日本では悪名高い「インシャーアッラー」(神の御意志あらば)という言葉をそえて処方箋とする。人間の意志だけで、ものごとはうごくわけではない。昨日が今日をしばることもできない。晴耕雨読感覚で生きるということになるだろうか。
 それでは困ると考えられるときには、第二の処方箋、契約にもち∵こむ。古来より、恋の詩歌を愛し、ロマンスをこのむアラビア人だが、恋の炎もうつろうことを認識している。うつろうからこそロマンティックなのだと考えているようである。そこであらかじめ、うつろったときのことを考えて、結婚も契約とする。離婚にいたったときの処置も決めておくのである。結婚契約書をとりかわし、そこに契約解除のときの具体的事項もかきこまれるのだ。
 カナダのエジプト人調査のおり、手に入れたムスリム(イスラーム教徒)の結婚契約書にも、解約事項をかきいれる欄が大きくあけられてあった。
 「うごく」あるいはうつろうことを前提とした書類と、さきにのべた「うごかない」ことを前提とした日本の書類とをくらべてみると、文化の差異が象徴的にわかるようにおもう。アラビアから地理的にたいへん遠いカナダにまで、さかんに移動していることを知ったのもおどろきであったが、そのような遠隔地で、しかも文化のまったく異なる環境にあっても、自分たちの「動の文化」を大切にして生きている人たちがいることを、フィールドワークは、あきらかにしてくれたのだった。

 (片倉もとこ「『移動文化』考イスラームの世界をたずねて」)