ペンペングサ2 の山 3 月 3 週
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○自由な題名
○この一年、新しい学年

○My local newspaper 英文のみのページ(翻訳用)
My local newspaper recently ran a feature article headlined, "The Great American Bag Race," which I found both interesting and amusing in ways that neither the author nor the editor probably intended. The subject was the relative merits of paper and plastic grocery bags; the discussion included the reasons why many customers and grocers vehemently prefer one or the other, and the fierce economic competition between manufacturers of both.
Just a few years ago, practically all grocery stores in this country routinely stuffed a customer's groceries into paper bags. In the early Eighties, plastic bags began to replace them in some places. By the time I sat down to write this, the two competitors were running neck and neck, with roughly equal numbers of paper and plastic bags in use.
The article I mentioned reached no clear conclusion about which kind of bag was better overall, but it made clear that both kinds of bags contribute to the problems of resource consumption and solid waste disposal. The difference between them in terms of environmental impact is one of degree -- and, when you come right down to it, pretty trivial. Ironically, neither the author nor anyone quoted in the article even hinted that there might be another option that offers much more significant advantages over either kind of bag.

★(感)多くの場合
 【1】多くの場合、病人を病院に送りこめば、とりあえず家族は一安心出来る。少なくともそこは、自宅とは比べようもないほど人的、物的な条件が整い、病人に必要な手当ての態勢が整えられている筈なのだから。
 【2】したがって、重い病人を入院させるのは当然の行為であり、これを非難する謂れは全くない。しかし一方、本人を病院の手に委ねた時、周囲の者がほっと一息つける心の底のどこかには、自分が苦しみを見詰める直接の責任者の立場から半歩退くことが出来た、という哀しい安心感が蠢いてはいないだろうか。【3】眼を逸らせた、というつもりはない。しかし、薄く眼を閉じて視野を狭めるほどのことはしたのではないか。そしてこの止むを得ざる心の動きが、畳の上で人の死ねなくなったという事態に、どこかで繋っているような重い気分が振り払えない。
 【4】もちろん、畳の上で死ねさえすればいいのではない。畳の上での死の実現には、病院で迎える死の場合とは比較にならぬほどの苦しみが、病人とその家族に襲いかかる可能性が強い。だからこそ、老いた病者を病院に送り入れた時、家族は僅かに救われ、なにがしかの苦しみの軽減を手に入れる。【5】その経緯を誰も責められはしない。
 考えてみれば世の中は、苦しみを少しでも軽いものとし、手を尽くしてそれを弱める方向へと動いているようである。最期の近い病人に対しては、苦痛を取り除くことまでは無理としても、それを最小限に抑える配慮は医療面でも払われているのだろう。【6】そしてその種の手当てが自宅では充分に行えぬとしたら、病者は病院に入れられねばならない。この直接的な苦しみの排除と、苦しむ者を見詰め続けねばならぬ、いわば間接的な苦しみの回避とが結びつき、人は畳の上で死ぬ力を失ってしまったのではないだろうか。
 【7】別の見方をすれば、畳の上で死ぬことには自他ともに凄(すさま)じいエネルギーが必要だったのだ。そして苦しみを遠ざけ、それを∵避けようとする正当な努力が、しかし苦しみを直視し、苦しみに向き合う力を、いつか人間から奪い去る傾向を助長しつつある。
 【8】その問題は、他の場所にも様々な形で顔をのぞかせているのではあるまいか。たとえば、子供の読む童話や民話の本から、残酷な光景や死に関る部分が取り除かれたり、隠されたりするのだとしたら、これは幼い心から予め苦しみを遠ざけることによって、苦しみとつき合う機会を奪う結果となるだろう。【9】小・中学校の国語の教科書編纂に際し、動物の死を含むような暗い内容の文章を採用しにくいため、教材の選択に苦労する、との話も聞く。これなども、苦しみや痛みに対する予防処置の一つといえるかもしれぬ。【0】少しずつでも苦痛に触れさせて慣らすことを考えるのではなく、その種の課題を最初から排除してしまう。子供や生徒が嫌ったり拒んだりするからというより、教える側の大人が怯むのではないか。苦しみを教える苦しみからの逃避の姿勢がそこに見られる、と考えるのは見当違いであろうか。
 世の中全体が、苦しみから身を躱(かわ)す術に長けて来た。見なければそこには存在しない、という信仰が広まりつつある。そして事実を置き去りにしたかかる信仰を支える装置とでもいったものが、大きな規模で生み出されて来た。その装置や仕組みのいずれもが、幸福とか、安心とか、平和とか、休らぎとかを目指している。つまり、信仰にはそれなりの正当性と物的保証がある。
 そして、人は苦しみの消滅に出会う。畳の上で死ぬことを望むのは、最早どこから見ても時代遅れなのである。今やわれわれは、ろくに畳の上で生きてもいないのだから――。

(黒井千次『老いの時間の密度』)