ナツメ2 の山 5 月 3 週
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○自由な題名
○算数の勉強


★表面的な生活の上では(感)
 【1】表面的な生活の上では、人間というものは、案外に早く適応するものだ。二十年前のことなど、すっかり忘れて、今の生活にどっぷりつかることが可能である。
 しかし、心の底のほうは、それほど早くは、変われないのではないだろうか。【2】さらに、人間たちの心の共通の底、いわば人間たちの文化と力とか、情感とかいったものは、それほど変われないのではないだろうか。
 これも、表面的には風俗はめまぐるしく変わる。流行のうつり変わりは早い。それにともなって、生活態度も変わる。【3】表面的に見るかぎり、人間の価値観が、どんどん変わっているように見える。
 とくに若者の場合、古いものを持たないだけに、その時代の表層感覚をものにすることは簡単である。いつでもおとなたちは若者を特別の目で見ようとする。【4】ぼくの若い時代だってアプレ(戦後派)と呼ばれたものだ。
 それでも、表層意識ではなくて、人間たちに共通の、深層の無意識にとっては、時間の流れは意外におそいのではないだろうか。それが、文化といった形になるには、ゆっくりとした時間が必要なのではないか。【5】それで、あまり急速な変化は、深層の無意識によって裏ぎられたりする。
 ぼくはなにも、いままでの秩序感覚を絶対的なものと、考えるわけではない。それも、表層のもので、秩序感覚なんてのは、どんどん変わったところで、人間はそれに適応できるものだ。【6】たとえば、都市化が進めば、たいていの人間は、とくに若者は、都市的な感覚で暮らせるようになるものだ。都市には都市なりの秩序感覚が生まれる。それでもぼくには、その深層の無意識は、そんなに急には変わらないのではないか、と思えるのだ。
 【7】たとえばぼくは、月に何回かは、東京と京都を日帰りで往復するような生活が表層では自然なようになってしまった。しかし、∵なにかしら深層では、そうした時間でそれだけの距離を往復することへの抵抗がある。【8】移動が可能になった便利さへの抵抗、そんなものを感じてしまうのである。
 もっとすごい人だと、昨日はパリ、今日は東京、明日はニューヨーク、なんて人もあるかもしれない。そのうちに、それが珍しいことでなくなるかもしれない。【9】しかしそれは、何万年もの間、自分の目のとどく範囲をテリトリー(なわばり)として生きてきた、このヒトという生物にとって、異様なことのような気がしないか。
 それほどでなくても、東京の友人と、電話で話すことは、いまではなんでもなくなった。【0】これだって、二十年前だと、「長距離電話」はかなり特殊なものだったわけで、ずいぶん便利になった。しかしこれだけの距離の人間がいつでも声をかわしうるということは、いくらか異様なことである。
 飛行機による遠距離の移動とか、電話による遠距離の交信とか、そうした文明の利益を、べつになんの気なしに受けながら、ときにぼくには、心の底のヒトが、なにか抵抗しているような気がする。
 山であったところが、町に変わる。ぼくは山の緑が好きだが、そうしたことを別にしても、あれだけの山林が、これだけの時間に、市街に変化してよいのだろうか、いつもそんな気がする。
 戦後の日本にしても、農村から都市への人の流れが、あまり急速だったような気がする。ひとびとの生活はそれに適応しているが、文化がそれにおいつけないでいるのではないだろうか。戦後日本の物質的変化のスピードに、精神的変化はおいついていないような気がぼくにはするのだ。
 たぶん、社会の急速な変化は、いろいろとチグハグなものをもたらすのだろう。そのチグハグがおもしろいとも言えるし、そうしたものが進歩へのブレーキの役を果たすとも考えられよう。そうしたものが見えてきたのも、いまの時代である。

(森毅(つよし)の文章より)