ナツメ の山 6 月 3 週
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○自由な題名
○家族(かぞく)の長所
6.3週
その日も、朝からどんよりとくもっていて、いまにも雨が降りそうだった。
ぼくたちは、二階のぼくの部屋で、マンガを読んでたんだけど、ふと見ると、明るい日がさしているんだ。あつぼったい雲のあいだから、ぽっかり、きれいな青空がのぞいてたな。
「おい、レオナ。太陽だ、太陽だ。林へいこうぜ。このおやつ持って。」
ぼくは押しいれをかきまわして、ピクニック用のしきものを引っぱりだした。そして、食べかけのおやつを自転車のかごにいれ、後ろにレオナをのせて、出発した。
ところが、林について、しきものをひろげたとたん、すーっと日がかげっちゃった。
「チェッ。なんだよ、なんだよ、けち。」
なんていってるまに、ポツポツ雨が降ってきて、たちまち、ザアザア降りさ。あわててぼくは、しきものをひっぺがし、頭からかぶった。
でも、レオナは、ばかみたいに口をあけて、雨ん中につっ立ってるんだ。まるで、雨がジュースで、顔じゅうでのもうとしてるみたいだったな。
「ばか。なにやってんだよ。早くはいれよ。」
のろのろとレオナは、ぼくに近づいてきた。
けれども、しきものの中にはいるかわりに、それをはらいのけ、あっけにとられているぼくの両手をにぎった。
「なにすんだよ。ぬれちゃうじゃないか。」
その時、いつかと同じように、レオナの手から、あたたかいものがつたわってきた。すると、ぼくはきゅうに、雨にぬれるのがちっとも気にならなくなってきた。
いや、気にならないどころか、反対に、気持ちよくなってきたんだ。ザアザアと降る雨は、けっして冷たくなく、むしろ、あたたかだった。
「ほんとだ。柔らかいシャワーだ。レオナのいったとおりだよ。」
ぼくはレオナのまねをして、上をむいて顔じゅうに雨をうけた。口をあけて、雨をのみこんだ。
耳をすますと、木や草の伸びる音が聞こえてきそうな気がした。
ぼくたちは、木のみきに耳を押しあてた。
「ほら、聞こえるよ。スクスクッて、伸びる音が。」
「うん。聞こえる、聞こえる。」
それから、手をつないで、わらいながら雨の中をはねまわった。
しまいに、レオナが足をすべらせ、ぼくもろとも、ぬれた草むらにひっくりかえった。ぼくたちは、そのまま、起きあがろうともせず、大の字にひっくりかえっていた。
雨はもう、ずっと小降りになっていて、やさしくぼくたちの上に降りそそいでいた。大きくなれ、林の木のように、大きくなれ、というように。
「レオナ。やっぱりきみは、宇宙人なのかい?」
ぼくはいった。いや、まてよ。ただ、心の中で思っただけだったのかな。
レオナの返事も、直接ぼくの心にかたりかけてくるようだった。
「宇宙人って、なんだい? ぼくが宇宙人なら、きみはなになんだい? ぼくたちはみんな同じ宇宙に生きている。その意味じゃ、みんな、みんな、宇宙人なんだよ。きみたちは、北海道人、九州人なんていいかたをするかい? しないだろう。それと同じさ。それくらいのちがいしかないんだよ。地球人と、ほかの星の住人とのあいだには。ひろい、ひろい、宇宙から見れば、ね。」
なん度も、ぼくはうなずいた。
でも、ほんとうのことをいうと、ぼくはもう、レオナが宇宙人だろうがなんだろうが、どうでもよかったんだ。大切なのは、ぼくたちが親友で、とても気があうってこと。
それに、たとえ宇宙人でも、平和を愛する宇宙人さ、レオナは。花や木や、自然が好きなレオナは。
そんなぼくの気持ちは、だまっていても、レオナにつたわったと思う。手から手へ、心から心へ……。
「宇宙人のいる教室」(さとうまきこ)より
★コオロギは「リーリー」と(感)
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【1】コオロギは「リーリー」と鳴くというけれど、「リーリー」と聞こえるのは人間の耳にそう聞こえるだけのことで、コオロギにはどう聞こえているのだろう、そんなことを小学生のころふと考えたことがあります。【2】人間の耳とコオロギの「耳」の構造はまるでちがったものでしょうから、少なくともコオロギが人間が聞いているのと同じように「リーリー」という音を聞いているという保証はありません。【3】そのように考えれば、同じ人間でも全く同じ耳はないのですから、私たちは個人個人で、少しずつちがった音を聞いているのかもしれません。ヨーロッパの人の耳には、あの美しいコオロギの鳴き声も雑音としてしか聞こえないという話もどこかで聞いたことがあります。【4】聴覚のしくみが日本人とヨーロッパ人ではちがうというのです。
先日ラジオで、東京ではアオマツムシが木の上でうるさいほど鳴いていて、他の虫の声が聞こえないほどだ、このアオマツムシは明治時代に中国から渡ってきた帰化昆虫で、どうも声がうるさすぎて味気ないというような話をしていました。【5】それを聞きながら、横浜に住んでいる私は、どうしてその虫が横浜にはいないのだろうと不思議に思ったのですが、つい先ごろ、ぼんやりと庭に出て夕涼みをしている時、妙に大きな声の虫が鳴いているのに気がつきました。【6】何もこの声は今年初めて聞くようなめずらしいものではなく、今まで毎年秋の初めに聞いてきた声で、私は今までずっとそれをコオロギだと思ってきたのですが、ラジオの話を思い出して、ひょっとしたらこれがあのアオマツムシかもしれないぞと思ったのです。【7】そうなると、やもたてもたまらず確かめたくなって、懐中電灯を持って庭の木の葉の上を探しました。そして一時間ほどの探索の末、私は今まで見たこともない緑色の虫が、緑色の葉の上で大声で鳴いているのを発見したのでした。【8】それ以来、今まで少し声の大きなコオロギだなということぐらいしか考えず、むしろ秋を感じさせる虫の声として楽しく聞いていたその声が、急にうるさく感じられるようになってしまったのです。
【9】私たちは、実際の体験を通じていろいろな知識を身につけてゆくのだと、単純に考えています。コオロギの声を聞いて、コオロギという虫を知り、セミをつかまえて、セミという虫の形や色に∵ついて知るというように。【0】けれども、実際には、自分自身の直接的な体験を通して得られる知識は案外少ないのです。むしろ私たちは、他人から知識を与えられることによって、自分の体験を幅の広いものにしていくといった方がよいでしょう。極端な言い方をすれば、私たちは、知っているものしか見えないし、聞こえないのです。
サッカーのルールについて何も知らずに、サッカーの試合を見ても、おそらく何もおもしろくないでしょう。そればかりか、何でボールを手に持って走らないのだろうとか、何でゴールキーパーをみんなで押さえてしまわないのだろうかとか考えてイライラするにちがいありません。手を使ってはいけないというルールがあるのだということを知っているからこそ、足で上手にボールをあやつる選手の姿がすばらしいものに見えるのです。それを知らなければ、足だけで懸命にボールをけっている姿はこっけいなものでしかありません。
知識は現実の見え方や感じ方を変えてしまう力を持っています。コオロギは日本に昔からいる虫だがアオマツムシは外国から渡ってきた虫だという知識が、コオロギの声はきれいだが、アオマツムシの声はうるさくて耐えがたいというふうに感じさせてしまいます。逆に床に落ちたステーキをそのまま皿に乗せて出されても、そのことを知らなければ、私たちは平気でそれを食べてしまうでしょう。「知らぬが仏(ほとけ)」というわけです。
現実の見え方や、それに対する感じ方を変えてしまうものは、知識だけではありません。習慣もその一つです。日本人とヨーロッパ人では聴覚のしくみがちがうという話も、考えようによっては、虫の声を楽しむという日本人の習慣が、日本人の耳を少しずつ変化させてきたのだとも言えるでしょう。