タラ2 の山 6 月 3 週
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○自由な題名
○家族(かぞく)の長所


★おまいりの道(感)
 おまいりの道
 【1】日光へのおまいりの道は豪華そのものでした。日光の東照宮には徳川家康がまつられています。毎年、春の家康の命日(めいにち)にはお祭りがおこなわれ、京都からも天皇のお使いが、はるばるおまいりにいきました。【2】ふつうの人たちも、みんな、でかけていったので、そうでなくとも日光街道はにぎやかになりました。しかも江戸の将軍家にとっては、ご先祖さまをまつったお宮です。ですから幕府は全精力をかたむけて、りっぱな大名行列をおこないました。【3】江戸時代、将軍の日光まいりは十九回おこなわれていますが、さいしょのころは、それでもしっそなものでした。ところがだんだんぜいたくになり、たとえば十代将軍家治(いえはる)のときには、行列のウマの数だけでも三十五万頭でした。【4】江戸から日光まで武士・足軽(あしがる)・人夫など人とウマとが、ひとつづきにつづいたといわれています。
 このような大がかりな行列のためには、沿道の人たちは、五年も六年もまえから準備をかさねなければなりませんでした。【5】江戸から日光まで三日かかりましたが、将軍の宿にあてられた埼玉県の岩槻や、茨城県の古河や、栃木県の宇都宮のお城では、そのためにお城を修理したりしなければなりませんでした。
 【6】利根川をわたるために、利根川には船橋もつくられました。船橋とは、船をつなぎあわせてつくる、水にういた橋のことです。船を五十そうも六十そうもくさりで横につないで、川はばいっぱいにわたします。【7】その上に、あつさ十センチもある大きな板をのせて、はば十五メートルほどの道をこしらえました。板の上にはさらにむしろをあつくしいていきました。その上に土をかぶせていきました。土の上にはすなをのせました。
 【8】このようにして、りっぱな道が水の上につくられたのでした。道の両側には、はば数十センチほど、みどりのシバを植えました。ふとくて青いタケも植え、小さなマツも植えていきました。
 なんとみごとな道だったことでしょう。【9】それが、あの大きな利根川をわたる、水にういたうき橋だったのです。
 橋が水に流されたり、ごみがひっかかったりしないように、上流∵にももう一つ、船をつないだ船橋をつくりました。そこで、川の流れをかんししたり、ごみをひろいあげました。
 【0】橋をつくった人たちは、行列がおわるまで、どんなにか、はらはらしたことでしょう。それは、いのちがけの思いだったことでしょう。この利根川の船橋は、三年がかりの大工事のすえ、ようやくつくりあげたものでした。しかしせっかくつくりあげた船橋も、行列がおわるとまた、とりはずされました。
 みなさんの中には夏休みに、日光へいく人もあるでしょう。日光街道や例幣使(れいへいし)街道(天皇のお使いがおまいりにとおった道)には、いまも一万四千本のみごとなスギ並木がのこされています。そのスギ並木を見たら、むかしその下を将軍たちの行列が、ぞろぞろととおっていったことを思いうかべてみてください。
 
 「道は生きている」(富山和子)講談社青い鳥文庫より