ピラカンサ の山 8 月 3 週
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○自由な題名


○In an age when reading(感) 英文のみのページ(翻訳用)
In an age when reading for most people is a nonintellectual pleasure, and when at the same time there is a constant stream of books falling from the publishers' presses, a book has only to be barely readable once in order to serve its purpose. It need not be reread, nor does it need to lie in the mind as a source of future pleasure. It thus ceases to matter whether a book is memorable; and when literature is not memorable it is nothing. Total illiterates who depend on folk literature for their pleasures of the imagination are thus much better off than semiliterates who read forgettable novels merely because they are available. Oral literature must lie in the mind, for otherwise it would be forgotten; but most modern written literature is expected to he forgotten, in order to make way of the next season's list. That is one reason why we feel that modern books are different in kind from "the classics.
The fact is that literacy itself is a means and not an end, and it can be put to uses which may be good, bad, or indifferent. A book may be read for a great variety of reasons. But the reason for which a book is read determines the way it is read and to so1me extent the degree of illumination it is possible to get from it. All books should, of course, be read for pleasure, but "pleasure" is not a helpful term here, for it has so many meanings. There are many kinds of pleasure, intellectua1 and nonintellectual, and even many kinds of intellectual pleasures. The appreciation of literature involves a very special kind of intellectual pleasure, in which the intellectual element is not always directly manifested and where the faculty which critics have come to call the imagination plays a complicated and not always definable part. The ability to read does not by itself guarantee the ability to enjoy that kind of pleasure; it has, in fact, no particular connection with it at all except that it provides the technique for communicating it to those in a position to receive it. Like patriotism, literacy is not enough.

★もう一つの体験は(感)
 【1】もう一つの体験は、彼の目の前で起きたイスラーム教徒の殺人であった。センが住んでいた地域一帯でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の暴力的な抗争が激化している中、イスラーム教徒の日雇い労働者だったその男は仕事をなくし、家にあった食べ物も底をつき、家族は飢えていた。【2】それでやむをえず、彼はわずかな報酬と引き替えに薪をとどけるため、抗争のまっただ中をヒンドゥー教徒の居住する地区に出てきたのだった。【3】通りでヒンドゥー教の暴徒に背中を刺されたその男は、センの家に助けを求めて転がり込んできたのだが、結局病院に運ばれる途中で死んでしまったという。
 【4】ここでもまた「出来事」はそれだけで十分に悲惨だ。しかし単なる悲劇ということをこえて、同じ暴力的抗争という事態の中で、なぜイスラーム教徒だけが仕事を失うことになったのか、なぜ彼が危険を冒さなければならないような状況に陥ったのかということを考えれば、【5】たとえ暴力的抗争という特別な事態でなくても、日頃からイスラーム教徒がヒンドゥー教徒に比べて不安定な職にしか就いておらず、何かあれば職を失いやすいような境遇にあったという社会的状況が見えてきただろう。【6】先の飢饉の場合と同じように、同じ境遇や条件の中であってもそこには変化に対して影響を受けやすい「誰か」がいるのであり、いったん社会的な変動が起これば、その「誰か」が真っ先に被害を被ることになる。【7】そしてその「誰か」は、決してでたらめに出てくるのではない。特定の地域の人々やなんらかの職業集団といったかたちでまとまって、以前からそこにあった社会的条件と関係しながら、そのような人々が「選びだされて」いってしまう。【8】飢饉だからといって皆が飢えるわけではなく、暴動だからといって誰もが殺されるわけでもなく、このように同じ状況下にあるからといって、誰にでも同じように惨禍がふりかかるわけではないのだ。
 ∵【9】飢饉や飢餓が、直接食糧の不足によって引き起こされるのではなく、また暴力的抗争の中で殺されたり傷つけられたりするといったことが、単純に出来事の「暴力性」からくるのではないというのであれば、そこにセンが語るように「社会的なもの」のはたらきを探ることができる。
 【0】たとえば、身体的なハンディキャップというものを考えてみると分かりやすいかもしれない。同じものをもっていても、同じ条件のもとで生活していても、身体的にハンディがあれば他の人と「同じように」それを利用することはできないし、災害などに見舞われれば、真っ先に不利な状況におかれるのはこのような人たちだ。しかし、もう少し見えにくい社会的なハンディキャップといえるものもある。イスラーム教徒だというだけで職を失ってしまった男などはその例だろうし、また「外国人出稼ぎ労働者」として異国で生活しなければならない人たちの多くは、「権利」や「法」という点で仮に百歩譲って平等だとしても、普通はその権利を行使できたり、法を持ち出してものごとを要求したりすることができるような立場にはいない。ドイツに出稼ぎに行ったあるトルコ人は、カフェに入って、ようやく覚えた言いかたで「コーヒーを下さい」と言ったけれど、コーヒーは出てこないで「おまえの来るところではない」という視線を向けられただけだったと語っているが、コーヒーくらいならともかく、これが食糧不足とでもなろうものなら、真っ先に食べ物を売ってもらえなくなるのはこのような人たちということになるだろう。こうして彼らは「被害を受けやすく」なってしまうのだ。そして、このようなハンディは「もの」の量や、「権利」や「法」の平等だけでなんとかなるというものではない、きわめて社会的かつ文化的なものなのである。

(岡本真佐子「開発と文化」より)