ジンチョウゲ2 の山 9 月 3 週
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○自由な題名


○Many school teachers(感) 英文のみのページ(翻訳用)
Many school teachers point out that the more children enjoy reading, the more skilled they become in reading. And literature, they say, is most useful for developing childrens reading skills. It should be welcomed that more and more teachers use literature for utilizing skills in joyful, purposeful reading. Care must be taken, however, to make certain that all literature falls within the reading levels of the children for whom it is provided. Although children will read different things at different levels, the frustrating experience of trying to read literature that is too hard may discourage a child from making attempts to read at all. Any literature that interests children, but that is too difficult for them to read, should be read or told to them by the teacher.
The children's interest contributes a great deal to fluency and speed in reading. Even word-by-word readers forget to loiter over each symbol when they become absorbed in a story. Instead, such readers race over the pages to find what will happen next, and in their eagerness they take in whole meaningful groups of words. Folktales are particularly valuable for reluctant readers. Repetition of phrases, simplicity of characterization and swiftness of plot make for easy reading. Also, the simple conversation in folktales helps to bridge the gap between oral reading and silent reading, a gap that the inexperienced reader often finds difficult to bridge.
Thus, literature serves children in many valuable ways. Many people today, realizing the essential worth of literature in this mechanized and troubled era of history, are combining their efforts to make the stimulating influences of literature more widely available. Educators are urging more abundant supplies of literature for classrooms and more skilful use of literature by teachers. Publishers, trained librarians, literary people, and childhood specialists are cooperating wholeheartedly in advancing and spreading literary values. All these efforts are evidence of a growing realization of the unlimited value of literature.

★近代以前の伝統社会では(感)
 【1】近代以前の伝統社会では、こんにちのような青年期はなかった。母のもとで暮らしていた子供は、ある年齢に達すると母親のもとから切り離されて、いくばくかの集団的な訓練をうける。【2】そして彼らは、子供としては死んで・大人として再生することを象徴する、特別の儀式(通過儀礼)に参加する。この儀式を終えると、彼らは、そのまま大人として、共同体の成員になる。
 【3】しかし、近代化とともに、社会は複雑になり、社会の成員となるために身につけねばならない技能・知識は、しだいに膨大になってきた。それらを習得するには、長い時間が必要になる。【4】こうして、「もはや子供ではなく、さりとて未だ大人でもない」過渡期が長くなる。あいかわらず親に養育されていて、労働・納税・兵役の義務を免れている、という意味で、未だ大人ではない。【5】しかし、家庭とべつのところで、大人になるための技能・知識を身につけるよう、訓練をうけている、という意味で、もはや子供ではない。こうしたどっちつかずの「境界人」という不安定な時期が、「青年期」なのである。
 【6】しかし、「社会的な役割を表わす言葉による自己確認」という意味での「アイデンティティ」の確立が、青年期の課題とされるようになったとき、その背景には、出自と役割の分離という、近代化のもう一つの姿がある。【7】近代以前の伝統社会では、出自(生まれ)によって、役割は自動的に決まった。小作農の家に生まれれば、自分もそのまま小作農という役割を引き継ぎ、商人の家に生まれれば、そのまま商人という役割を引き継ぐ。【8】このように生まれによって、引き受ける役割も決まる。伝統社会では、そうであった。しかし近代化とともに、職業の選択は個人の自由となり、宗教の選択も、政治的立場の選択も、個人の自由に委ねられるようになる。出自と、引き受けるべき役割が、切り離されたのである。
 【9】こうなると青年期は、大人として必要な技能・知識を身につけるだけではすまなくなる。【0】自分は、どの役割をどう引き受けるのか。社会的な役割を表わす言葉を、どう組み合わせて、自分を定義するのか。農民らしく、それとも職人らしく、……教徒らしく、それとも……、国民らしく、それとも……。どのような「らしさ」を、どのように組み合わせて、「これが自分だ」と名乗って出るのか?∵ 青年期とは、こうした選択を迫られる時期となったのである。
 簡単におさらいする。近代化とともに、社会的な役割を習得するための訓練期間が長くなったこと。社会的な役割の選択が、出自を問わず、個人の自由に委ねられるようになったこと。この二つが合わさって、個人の人生に「青年期」という段階が生まれ、「社会的な役割を表わす言葉による自己定義」が、青年期の課題となったのである。
 現代社会は、近代化された社会である。したがって、いま見たような「アイデンティティの確立」が青年期の課題であることに変わりはない。学歴・職業・宗教・国籍・政治的立場のみならず、「男である・女である」という述語も、いまや生物としての性別から切断され、自由に選択される役割を表わすようになる。これもまた、役割と出自の切断という、近代化の延長線上の事象である。
 しかし現代は、近代の延長だけでもない。近代の延長線上にありながら、近代の枠組みが、確実に、ゆるみ・崩れはじめてもいる。それとともに、アイデンティティの問題も、少しずつズレはじめている。近代のアイデンティティ概念は、いっさいから自由な個人、という観念を前提としていた。出自を問われることも(あるいは、すら)なく、自分の意のままに、自由に役割を選択する、自由な個人……。しかし、いまや、そのようにいっさいの絆を切って自由になったことが、一人の・取り替えのきかない個人であるということの土台をヒタヒタと侵食しつつある。

(大庭健『私という迷宮』より)