ネコヤナギ2 の山 1 月 4 週
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○自由な題名
○私の夢
★清書(せいしょ)

○二〇〇六年のトリノ・オリンピックで
 【1】二〇〇六年のトリノ・オリンピックで日本勢は低迷を続けていたが、ようやく最後の最後になって、荒川静香選手が女子フィギュアで金メダルを獲得し、一気に盛り上がりを見せた。
 【2】「静かなる湖の朝」を思い起こさせる荒川選手の演技は、跳んだりはねたりする「元気なフィギュア」のスタイルに対して、みごとに「別の選択肢」を見せてくれたのではないかと思う。【3】得点にはあまり貢献しないとされても、観客を魅了する「イナバウアー」にこだわった荒川選手の快挙は、単に金メダルにとどまらない意味を持つ。
 「金」「銀」「銅」を「一」「二」「三」と言い直してみればわかるように、メダルとは、つまりは参加した選手の中での順位=「数字」である。【4】よく言われることだが、勝者が出るためには、敗者が存在しなければならない。全員に「一」という順位の数字をプレゼントすることはできないのだ。
 一方で、競技をしている選手たちにとっては、「順位」では捉えきれないさまざまなよろこびがあるのは当然のことである。【5】自分を少しずつ高めていくこと。今までできなかった技ができたこと。ケガを乗りこえたこと。
 人間の脳でつくり出される「うれしさ」は、さまざまであり、他人と比べてどうかということとは、本来関係ないのである。
 【6】人間の脳は他人との関係性から多くのよろこびを得るが、その本筋は誰かの役に立つことができたとか、心が通じ合ったという点にある。
 競技もまた関係性の一種であり、そこで一番になったということは、本当は副次的なことなのだ。
 【7】強いて言えば、一番になることで「人に認められる」「ほめられる」ということがうれしいのかもしれない。それでも、けっして、「一番」という数字自体に人間関係における根源的な意味があるわけではないのである。∵
 【8】荒川選手は、「ポイント(=数字)につながらなくても、人がよろこぶことをやりたい」という思いを強く持っていたと伝えられている。
 そのような、いわば脳にとっての「うれしさ」の本筋が金メダルにつながったのだから、これほどすばらしいことはない。
 【9】本質を見極めずに、単に順位にこだわるのは、「数字フェチ」とでも言うべきだろう。
 年収、偏差値、年齢。人間を惑わせる数字はたくさんある。数字にこだわるまいと思っても、ついつい左右されてしまうのが人間である。軽い数字フェチは、進化の過程でそれなりに役に立ったらしい。
 【0】確かに、人間は皆、ある程度、数字フェチなのである。うれしいことがあったときに活動する脳の「報酬系」は、「これだけの額のお金をあげます」などといった抽象的な刺激でも活性化する。数字は、もともと人間の脳にとってはきわめて抽象的な概念である。その現実から離れた存在に自らのよろこびを託すことができるということが、人間ならではの「クセ」らしい。
 学校の成績や、お小遣いの額や、一国の経済成長率。数字に一喜一憂する人間は、動物たちから見れば、かなり奇妙な存在である。ときには、俺たちはずいぶんヘンらしい、と反省することが必要だろう。
 荒川選手の金メダルは、数字フェチたる人間のよろこびを、「他人をよろこばせる」という生きることの根源に結びつけてくれたのである。

(茂木健一郎『すべては脳からはじまる』「中公新書ラクレ」)