ゼニゴケ の山 1 月 4 週
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○自由な題名
○独裁と民主主義
★清書(せいしょ)
★一方、生き残る方言には
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一方、生き残る方言には、二種類のものがある。ひとつは、それが方言だと気づかれないで使われる方言である。例えば、東北地方では「捨てる」ことをナゲルと言う。「テレビをナゲル」は、テレビを放り投げるわけではなく、廃棄するという意味である。このように、意味はずれるものの形が同じことばは、共通語と錯覚されるために残りやすい傾向がある。しかし、それらは方言だと気づかれたが最後、共通語へ切り替えられていく運命にある。
生き残る方言のもうひとつは、方言だとわかってはいるが、使わないではいられないといったものである。それらは、文末詞や、感情語彙、程度副詞、挨拶ことばなどの中に多い。例えば、仙台の文末詞なら「行くっチャ」の「チャ」がよく使われる。これは共通語に直せば「行くさ、行くとも」であり、「当然だろ、何でそんなこと聞くんだ」といったニュアンスを表す。また、「行くべ、行くべ」は、「行こう、行こう」という意味で、相手を誘うときによく使う。こういった「チャ」や「ベ」は今でも元気である。
感情語彙では、「メンコイ」や「イズイ」が生き残っている。「イズイ」は体表面のなんとも言えぬ不快感を表すもので、襟元に毛が入って「イズクてたまらない」とか、セーターを洗ったら縮んでしまって「イズクてしょうがない」、といったふうに使われる。こういう方言は、今でも老若を問わず根強い人気があって、かなり使われている。気づきにくい方言と違い、これらこそ地元の人々の支持を得た、正真正銘生き残る方言といえる。
これらの「真正」生き残る方言に共通するのは、いずれも相手の感情に訴えかける性質を持つという点である。右で見た文末詞や感情語彙はもちろん、程度副詞(関西のメチャ、名古屋のデラなど)や挨拶ことば(東北のオバンデス)も、同様に理解してよいだろう。これらの感情的要素は相手の心に響くものだけに、会話の雰囲気を気取らない、打ち解けたものにする効果が抜群である。すなわち、こうした方言を使うことで、「私はあなたと心を割って、親しく話したいんだ」とか、「肩肘張らないで、リラックスして話しましょうよ」といった意思表示を行うことができる。共通語の使用が相手との間に壁を築くのに対し、これらの方言は逆にそのよう∵な垣根を取り払い、お互いの心的距離を縮める役目を果たす。現代人は無意識のうちに、こうした方言の機能を会話のストラテジーとして利用しているように見える。
「方言」と一口に言っても、もはやそれはシステムではなくスタイルに変質してしまった。それならば、方言スタイルという確固とした文体が存在するのかといえば、若者たちの方言の実態は、共通語が主体でそこに右に見たような要素をわずかに加えた程度のものにすぎない。会話の雰囲気作りのために共通語に散りばめられる要素になってしまった方言を、私は、服飾になぞらえて「アクセサリーとしての方言」と呼ぶ。アクセサリーはあえて付ける必要のないもので、それを付けることには積極的な意味がある。同じように、若い人たちは共通語だけで十分コミュニケーションが成り立つのに、あえて方言を使おうとしている。それは、親しい仲間同士の会話を楽しむ潤滑油として、方言の価値を認めているからにほかならない。
ところで、アクセサリー化したといっても、仙台あたりの若者が使う方言はあくまでも地元の方言である。ところが、最近では、東京の若者たちが、全国各地の方言を取り込んで携帯メールを楽しんでいるという。正直、方言がここまでくるとは思わなかった。考えてみればこうした無国籍的な方言の使い方は、アクセサリー化した方言の究極の姿であると言えるだろう。だが、土地から遊離した方言は果たして方言と言えるのか。「母なることば=方言」というイメージにとらわれていると、蕎麦の薬味のような方言を方言と認めるには抵抗がある。「方言」とは何であるのか、自明のように思われたことが、今、あらためて問われているのである。
(小林隆「現代方言の正体」による)