ゼニゴケ2 の山 1 月 4 週
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○自由な題名
○独裁と民主主義
★清書(せいしょ)
○さて、フィリアー(愛)は
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【1】さて、フィリアー(愛)はアリストテレスによれば三つの成立根拠をもっている。その一つは「有益なもの」であり、もう一つは「快いもの」であり、そして、最後に「善いもの」である。
【2】それでは、「有益である」ことに基づいて、他者と交わっている人はその他者を愛しているであろうか。ある意味では、愛している、と言えるかもしれない。すなわち、かれが自分にとって有益である限りにおいて。しかし、かれが有益でなくなれば、その人はかれを見捨てるであろう。【3】たとえば、かれが老化したり、アルツハイマー病などになったり、体を壊したりして、仕事ができなくなれば、かれを有能な人間として評価し雇用していた社長はかれを解雇するだろう。もともと、かれは人間自身として遇されていたわけではなく、したがって、愛されていたのではなかったからである。
【4】では、快楽の故に他者と交わっている場合はどうか。ある人が機転が利いて、いつも面白い話をし、その魅力のゆえに人に愛されていたとしよう。この場合も、右の「有能さ」の場合と同様である。脳梗塞などになって機転が利かなくなり、全然面白くなくなれば、人々はかれから離れてゆくかもしれない。
【5】この点について、パスカルは恐ろしい話をしている。ある男がある女性をその美貌の故に愛していたとする。あるとき、彼女が天然痘にかかり、その美しさを失ったとする。【6】そのとき、その男はその女をなお愛し続けるか。もしも、そのとき、男が女から離れたとすれば、男は女を愛していたのではなく、自分の快楽を愛していたのである、と。【7】パスカルはこの断章で、人間は人間を、ただ滅びゆく付けたりの性質によってしか、愛することはない(愛しえない)のだから、人間が人間を(あらゆる付属的性質を取り払ったそれ自体として)愛することなどはありえない、という苛烈な帰結を引き出している。
厳しく言えば、それはそうかもしれない。【8】しかし、ここで問題にしているアリストテレス的な良識の次元で言えば、利益や快楽に基づく愛は、第一に、自分自身の利益や快楽の尊重で相手自身の尊重ではないということ、第二に、そのような利益や快楽を生み出す相手の美質は安全性を欠くあまりにも移ろいやすい陽炎であるとい∵う点に問題があるのである。
【9】それゆえ、利益と快楽に基づく愛は、本来、愛の名に値しない。これらの交わりにおいては、人は相手の人を愛しているのではなく、自分の利益や快楽を愛しているからである。それはエゴイズムの一形態なのである。
【0】そこで、愛は、残る一つの成立根拠、すなわち、「善」に基づく愛でしかありえない。なぜ、そうなのか。なぜなら、相手自身を愛するとは、相手のもつ様々な性質や能力を愛することではなく、相手の人格を愛することであり、人間の人格は善(徳)に基づいてしか成立しえないからである。どのように魅力的な性質や能力も時間の中で老化と衰弱へと運命づけられている。もしも、人と人との交わりがこれらの属性に依存していたのなら、交わりもまた早晩衰弱し消滅せざるをえないだろう。
しかし、善に基づいて形成された人間の「在り方」としての徳は、人間のもつ様々な在り方のうちで、もっとも恒常的であり、安定的であり、したがって、信頼に値する、とアリストテレスは言う。いったん確立された徳は、いわば時間と老化とあらゆる加害を超えて存続する人格の基礎として、生きている限り、決して滅亡することのない恒常的存在である。
(岩田靖夫『いま哲学とはなにか』による)