メギ2 の山 2 月 4 週
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○自由な題名
○ひとりでいることと友達といること
★清書(せいしょ)
○公立中学校の先生が
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【1】公立中学校の先生が去年一年ぼくの大学院のゼミに聴講生として来ていた。おかげで、教育の「荒廃」ぶりについて現場の声を伺うことができた。中でも印象的だったのは、子どもががらりと変化するのが、たいてい中学二年の夏休みだということである。【2】夏休み前まではなんだかおどおどして、はっきりしない子どもだったのが、夏が終わると、髪の毛を茶髪に染めて、昇降口に座り込んで、三白眼で教師をにらみつけて「うぜえんだよ」と追い払う……というふうに変貌してしまう。【3】なるほど、思春期の自意識の混乱を、この子たちはこういうふうに処理するのか、と妙に納得してしまった。
中学二年生頃の自意識の混乱というのを、私たちはもう忘れてしまっているけれど、あれはけっこう大変なものである。【4】自分自身、自分が何を考えているのか、よく分からない。何か口にすると、そのつど「いや、こんなことが言いたいわけじゃない」という前言撤回の思いがせり上がってくる。何かをしても、「いや、こんなことがしたかったわけじゃない」という、自分自身の欲望との不整合感がぬぐえない。【5】だから、思春期の少年少女のたたずまいというのは、ほんらい、「なんだか煮え切らないもの」なのである。口ごもり、言いよどみ、身の置き所がない……というのが思春期のシャイネスの「王道」である。
【6】ところが、「九月デビュー」の即製不良少年たちは、できあいの「不良の型」にすっぽり収まることで、このシャイネスに「けりをつけて」しまった。一人一人の中学生が、感じている自分自身との違和感はそんな簡単にできあいの「型」にはめられるものではない。【7】茶髪にしたり、ピアスをしたくらいで、ぴったりした自己表現の形態に出会いました、というほどめでたくステレオタイプな人間なんていやしない。不良少年たちとはいえ、それぞれに家庭環境も学校での立ち位置も言語能力も身体感受性も趣味嗜好も違うはずだ。【8】それをぜんぶ「ちゃら」にして、レディメイドの「不良型」にすっぽり収まるというのは、相当いろいろなものを切り捨てることなしには達成できない力業である。【9】思春期のシャイネスを「捨て値」で売り払うことによって、この子たちは、できあ∵いのアイデンティティを買い取っているのだけれど、私はそれはずいぶんと不利なバーゲンのような気がする。【0】でも、そういうシャイネスのたたき売りと「九月デビュー」を子どもたち自身は(場合によっては親や教師やメディアも)「個性の実現」だと錯覚している。そんな「定型への回収」をどうして「個性的」だなんて思い込めるのか、私には理解できないけれど、本人たちはそう信じて、思春期にけりをつける。
どうして、「不利なバーゲン」だと思うかというと、そういうふうに思春期に乱暴に「けりをつけて」しまった人間は、そのあと、年齢を加えていっても、もう「シャイ」になったり、「複雑」になったりすることができないからである。なりたくても、もうなれない。立て板に水を流すような、薄っぺらなセールストークの操作能力なんかは一週間もあれば、誰でも身につけることができるけれど、「口ごもる」「言いよどむ」「ためらう」というような思春期固有の言語運用の回路は、一回壊してしまったら、もう再生がきかない。シャイネスなんて、一回手放したら、もう二度と手に入れることはできない。でも、それがどれほどたいせつなものかは誰もアナウンスしない。
(中略)
しかし、私たちの社会は(家庭でも学校でも企業でも)、そのような複雑さを評価する習慣を失って久しい。私たちに要求されるのは、何よりもまず「わかりやすさ」であり、「単純なキャラクター」である。けれども、人間というのは、そんなに簡単に「わかりやすく」「単純」になれるものなのだろうか。人間本来の底知れなさを無視して、単純な「型」のうちに流し込むことの本質的な危険性に人々は気づいているのであろうか。
(内田 樹()『響く声・複数の私』より)