ゼニゴケ の山 2 月 4 週
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○自由な題名
○階層と平等
★清書(せいしょ)
★生産性向上を目指してきた
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生産性向上を目指してきた近代社会は、機械化と時間管理の徹底化によって単位時間当たりの生産性を高め、一日、一週間、一月、一年といった各周期の労働時間の短縮を行なってきた。一九八八年、労働基準法の改正により、日本でもようやく週四〇時間を目指して労働時間の短縮を図る動きが国の側から開始された。いまだに実質的に週四〇時間労働が実現しないとはいえ、自由時間の増大に対応するための社会システムのあり方が模索されている。そこで目標とされるのは年間で一八〇〇労働時間の社会であり、睡眠時間や通勤時間を除いても年間の自由時間は約四〇〇〇時間となる。さらに、圧倒的に多い自由時間は、人生全体のなかで大きな比重を占め、人びとは自由時間の過ごし方を中心に人生の設計を図らなければならない。
しかしながら、近代社会の理念の下では、けっしてこの自由時間は個人の自由に完全に委ねられるわけではない。それは、自由裁量の時間でありながら、労働や他の義務的活動によって生じた疲労を回復し、気晴らしになり、しかも自己の発展と文化の発展につながるような活動で埋めることを求められる。享楽主義や自己破壊につながるような時間の過ごし方は、近代の理念に反するのである。その意味で、レジャーは、新しい時代の社会規範にしたがって水路づけられることになる。
他方で、自由時間の過ごし方は、時間をあくまで定量的に把握する近代の時間観念に依拠している。労働時間が資源として扱われ経済的価値を帯びるにつれ、それを切り詰めることによって獲得された自由時間にもその経済的価値意識が反映されてくることは、必然の成り行きでもある。すなわち、自由時間を有効に無駄なく過ごそうという意識が、自由時間内の活動自体に浸透するのであり、近代の時間意識は、自由時間においても変わらない。複数の人びとが共同で行なうレジャー活動は、多くのスポーツや趣味のクラブや個人の日常の各周期のスケジュールのなかで、厳格に共時化され、順序づけられ、進度調整が図られる。
しかし、時間を合理的に使おうとする割には、自由裁量性に目を奪われたり期待をかけすぎて、われわれはすべての活動が時間を消費することを忘れがちである。たとえば、テレビの番組をビデオに∵収録して自分の好きなときに見るという発想は、時間消費の自由裁量性を高める工夫であるように見える。しかしこれは、今は読めないがいつか読むつもりでたくさんの本を買い込む悪癖を想起させる。現実には、それは限られた自由時間にきわめて時間消費量の多い活動を詰め込み、結局睡眠時間を切り詰める結果になりがちである。この傾向は、消費社会の論理によってさらに加速される。
(長田1攻一()「現代社会の時間」『岩波講座現代社会学 時間と空間の社会学』岩波書店、一九九六年による。)