ゼニゴケ2 の山 2 月 4 週
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○自由な題名
○階層と平等
★清書(せいしょ)
○日本語の「自然」は
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【1】日本語の「自然」は、「おのずから」という情態性を表している。それは主語として立てられうる名詞的実体ではなくて、どこまでも述語的に、自己の内面的な心の動きを捲き込んだあり方を示している。【2】私たちは、人為的なはからいの及ばない、「おのずからそうであり」、「ひとりでにそうなる」事態に出会った場合に、そこに一種不安にも似た情感を抱く。この情感において、私たちの祖先は自然を「あはれ」と感じ、そこに無常を見て取っていた。
【3】この不安の情態性がきわめて強調された形で言語化されたものが「万一のこと」、「不慮のこと」を意味する「自然」の用法であろう。「自然」が「不測の偶発事」を意味しうるというようなことは、西洋人の理解を全く超えたことである。【4】ここで「自然のこと」といわれているような事態は、西洋人の眼から見ればきわめて不自然な、自然の摂理に反するような椿事である。それが死を指しているときには、それは明らかに「不自然死」である。【5】ところが日本人にとっては、自然はつねに「もしも」という仮定法的な心の動きをうながすというところがある。西洋の自然が主として人間の心に安らぎを与え、緊張を解除するように働くものだとするならば、日本の自然は自己の一種の緊張感において成立しているといってもよいだろう。
【6】この対比が鋭く現れているいまひとつの例として、西洋の庭園と日本の庭園との差異について触れておこう。西洋の庭園の代表的様式としては、フランス式庭園とイギリス式庭園がある。前者は左右対称の幾何学的図形を基本とする人工的装飾の趣きの強いものであるのに対して、後者はできるかぎり人工を排して自然の風景そのままの再現を旨としている。【7】一方これに対して、日本の庭園では、狭い空間にいわば象徴的に天地山水を配する技法が重んじられ、その意味では人為の極致とも考えられるけれども、しかもその人為を人為として、技術を技術として感じさせず、自然の真意をそのままに表した庭が最高の庭とされている。【8】イギリス式庭園が自然に対して写実的であるとするならば、日本の庭園は自然に対して表意的である。イギリス式庭園が本来の自然のコピーとして、不特∵定多数の人びとのために手軽な代用的自然を提供する「公園」であるのに対して、【9】日本の庭は、そこに表意されている自然の真意を鋭敏に感じとる主体の側の感受性を期待して作られるものであって、したがって当然のことながら、鑑賞能力を有する少数の人だけのための私的・閉鎖的な芸術作品という性格を帯びる。
【0】この庭園の例によってもわかるように、西洋の自然が誰にとっても一様に自然であり、人間一般に対しての外的実在であるのとちがって、日本の自然は、心の一種の緊張感においてそれを自然として感じとる個人を必要とし、人間一般の外にあるのではなくて一人一人の個人の心の内にある。というよりはむしろ、自己がその心の動きを、張りつめた集中性において、しかもそれでいながら一切の束縛を離れたありのままの自在性において感じとっているという事態、あるいはそのような事態を出現させる契機となっている事物、そういったものが日本人にとっては「自然」の語の意味内容となっているのである。
(木村敏()『自分ということ』による)