ペンペングサ の山 2 月 4 週
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○自由な題名
○階層と平等
★清書(せいしょ)

★なぜ人は理解を求めるのであろうか
 なぜ人は理解を求めるのであろうか。これは、進化の歴史において人間がきまった生活様式をもたず、それ故に逆にさまざまな環境に住みつき生活できたことと関連があると思われる。特定の生活様式をもっていれば、それで適応しやすい環境を選んで住みつき、そこで所与の情報を処理するだけでこと足りる。しかしそうした特定の生活様式をもたないときは、将来出会うさまざまな環境条件、おこりうる種々の環境の変化に対処しうるような、一般的な準備をしておくことがどうしても必要になる。
 ある手続きによって今好む結果を手に入れることができたとしても、それだけでは、その手続きがどの範囲で有効なのかわからない。環境条件の些細な変化によって好む結果が得られなくなってしまうというのでは、あまりにも不安定である。これに対して、その手続きが「いかにして」「なぜ」うまく働くのかがわかっていれば、条件が変わったときには、手続きを柔軟に修正することができるだろう。また将来、予見することのできない課題に出会ったときにも、そこに含まれる対象物をよく理解していれば、適切な手続き的知識を生み出すことも、それほど難しくないにちがいない。
 このように考えてくると、理解というのは、いわば、いろいろな環境条件(の変化)の可能性に備えて、あらかじめ一般的な準備をしておくことと見ることができるのではあるまいか。理解しておくことが人間にとって適応上必要な意味をここに求めることができよう。
 予想に反した事象に出会ったとき、あるいは、どれが真実なのかよくわからないとき、一応わかるがピタッとわかったという感じがもてないとき、知的好奇心がひき起こされる。この知的好奇心のひき起こされた状態とは、ことばを変えれば、理解がまだ十分に達成されていないことをわれわれが感じとった状態だといえよう。このときわれわれは、今のところうまくやっていけているが、将来にわたってこの状態を維持できるかどうかわからない、と告げられていることになる。そこでできるかぎり他の課題に優先させて、理解を達成しよう(知的好奇心を充足させよう)とするのである。
 当面の課題の達成をめざすことが現在志向(あるいは特定化された近い将来志向)だとすれば、理解をめざすことは、特定化されない遠い将来志向だといえよう。そして人間は、そのような将来志向∵の強い動物なのではないだろうか。
 もちろん、だからといって現在のさまざまな理解活動において、その都度「これは将来のためだ」と意識しているわけではない。むしろこの活動に際しては、わかることそのものが楽しいから、自分なりに納得できるのはうれしいことだから、それに従事している、というにすぎない。それが結果として将来の適応に役立つのだ、と考えるべきであろう。
 ここでひとつことわっておきたい。人間が知的好奇心が強く、深く理解することを求めている、といっても、いつでも、どのようなときでも、そうなのではない。例えば、四歳から九歳の子どもたちに、種々の積木を与え、「平均台(支点)」の上に置いてバランスをとるように求めた実験をみてみよう。年長の子どもやこの事態に慣れた子どもは、積み木の中央を平均台の上に乗せるとバランスがとれるという「理論」を持ち、これを試そうとしていた。
 ここで注目すべきなのは、これらの子どもが、とりあえずはこの課題ができるようになっていた、すなわち、試行錯誤的に何とかつりあいをとって積木を置くことができたことである。どうやったら課題を達成できるかまったくわからない、いいかえれば全精力を当面の課題の達成に使わざるを得ないあいだは、理論検証つまり理解への試みは見られなかったのだ。ひとまず課題を達成できたという心的余裕があったからこそ、この解決法をより広い文脈において内省してみようとしたのだと考えられる。
 現在の課題の達成のために手もちの心的エネルギーないし情報処理能力を使いきっている状態では、とてもこうした理解の達成のほうにまでその力をふり向けられないであろう。いいかえれば、理解をともなう学習には時間がかかるのである。時間に追われ、多くのことを速やかに処理しなければならない場合には、とても深い理解など達成できない。ここであげた事例が、他からの強制がないだけでなく、自分の好むやり方で、好むだけの時間取り組める事態で生じたものであったことを、もう一度注意しておこう。知的好奇心にもとづく学び手の能動性は、外側からせきたてられないかぎりにおいて発揮されうるのである。

(稲垣佳世子()・波多野誼余夫()『人はいかに学ぶか 日常的認知の世界』による。一部改変)