ペンペングサ2 の山 2 月 4 週
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○自由な題名
○階層と平等
★清書(せいしょ)

○考えて見れば、発達成長の
 【1】考えてみれば、発達成長の段階にある子供が大人より遙かに活動的であることは当然である。子供が遊ぶ時には体や衣服が汚れるのは自然なのだから、汚されても困らない服を着せ、遊びにはつきものの多少の品物の損害やカスリ傷などは、【2】子供の生育に必然的に伴う当然の代償として一々小言を言わず、社会的な場面や本質的に矯正を必要とする事柄に限って断乎と叱るようにすれば、家の子は言うことをきかなくて困りますというような結果には、まずならないものである。【3】それをビラビラした飾りのついた活動に不便な高価な服を着せ、ちょっと汚したと言っては叱り、跳ね回ると危ないからよせと言い、物を毀せば、もう買ってあげませんよと威すといた具合に、禁止と規制の範囲をやたらと拡げてしまう結果、【4】子供としては叱られることなど気にしていたら生きて行かれなくなる状態に置かれるから、親の小言はひとまず無視する癖がつくことになる。つまり、禁止の範囲が不条理を含み、本質的に山かけ的であるため、制止された場合はひとまずそれを無視して行動を続けるのが得策というパターンが身につくのである。
 【5】このようにことばを使う方が、言ったことを本当に守らせるだけの見通しも裏付けもなく使うことの結果として、言語とその背後にある意志の間に大きなズレが生じ、ことばに対する信頼が失われ、ことばが無力化するのである。
 【6】私の見るところでは日本人の日常のことばに対するこのような態度が法律や規制の面で一番よく表れているのが、道路交通法に基づく禁止条項に対する一般人の反応である。数限りなくある禁止の形骸化の実例から唯一つだけ駐車禁止の問題を取り上げて見よう。
 【7】例えば現在の東京では、環状七号線の内側は特定する場所を除いて、一般道路は全面駐車禁止の対策がとられている。ところが誰もが知っているように、交番や警察署の目の前ですら、見渡す限り違反駐車の列である。【8】文字通り法律の規定通りに違反駐車をしている車を、本当に違反駐車として判断し、処置するまでに∵は、いわく言い難きいく段階かのプロセスがあるのは誰でも知っている事実である。【9】つまり駐車禁止の標識とは母親が単に「いけませんよ」と言っている段階に相当するのであって、それは直ちに実力の裏付けと組み合わされているものではないのである。しかしだからと言っていつでも無視してよいものではないことも誰でも知っている。【0】本当に叱られた子供と同じく、罰金をとられる運転者も、不条理性とか運が悪いといった気持で自己の違反を受けとめるのであって、悪いことをしたのだから止むを得ないという割り切った気持にはなれないしくみになっているのだ。
 法のカバーする範囲を極端に広くしておいて、懲罰と反則行為との直接的対応を弱めてしまうことは、法の威信の低下、禁止など無数の標識に対する無感覚の助長など無数のマイナスが指摘出来よう。標識関係の経費が全国では莫大な金額にのぼっていることも忘れてはなるまい。むしろ絶対にゆずれない局限された場所と時間に禁止を限り、取締りの能力と連動した規制を行うという発想の転換が必要ではないだろうか。そのためには、私たち日本人がもっと、投入するコストと実効との関係、山かけ発想の危険性に今より敏感になり、明示的一義的に解釈可能な領域に於ては行為の意図よりも結果で物ごとを決定するような態度を育成する必要があるように思う。ニューヨーク州でマリファナ使用を合法と認めるかの議論があった時、強力な賛成意見の一つに現在の警察力では取締り切れないからというのがあったが、これなど違反行為と懲罰の直結性を重く見る考え方の一例として参考になるのではないだろうか。

(鈴木孝夫『ひとにはどれだけの物が必要か』による)