ベニバナ の山 2 月 4 週
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○自由な題名
○ひとりでいることと友達といること
★清書(せいしょ)
○人間は目ざめているかぎり、
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人間は目ざめているかぎり、いつも頭のなかに何かを描いています。もしここに一枚の白いカンヴァスがあって、それに人間があれこれ思い描くイメージが、そのまま映しだされるとしたら、いったい、その絵はどんな作品になることか。人間の頭のなかほど神秘的なものはない、と言ってもいいと思います。
そこでいま、私は自分を実験台にして、自分の頭のなかを正直に描いてみようと思います。といっても、まさか白いカンヴァスに私の頭のなかにあるイメージを映しだすわけにはゆきません。やむを得ず、それを何とかことばで書き記してみようと思うのです。
ところが、このような試みは、けっして容易ではありません。なぜなら人間が頭に思い描いているものは、なかなかことばにならないからです。人間は何かを考える際に、ことばで考えています。ですから、考えていることを、そのままことばにすることは、かんたんのように思えますが、頭のなかで考えているそのことばは、けっして完全なことばなのではなく、いわば、ことばの断片のようなものです。とぎれとぎれのことばが、浮かんだり、消えたりしている、と言ってもいいでしょう。それを、そのまま原稿用紙に書き写してみても、当人以外には、いや当人にとってさえ、意味不明のことばの羅列になってしまい、とうてい、理解できる文章にはなりません。
フランスの生理学者ポール・ショシャールは、頭のなかで考えているそのようなことばを「内言語」と呼んでいます。つまり、人間はことばで何かを考えているのですが、そのことばは、話したり書いたりすることばとはちがった「内言語」だ、というのです。したがって、人間は、つねにふたつのことばを持っているということになります。考えるときに使う「内言語」と、話したり書いたりするときに用いる通常のことば――ショシャールそれを「外言語」と名づけます――です。
このふたつの言語は、一見、おなじように思われますが、じつはそうではなく、両者はまったく異質な脈絡のなかにあるのです。ですから、「思ったとおりに書け」と言われても、そうかんたんにゆきません。文章を書くということは、「内言語」を「外言語」に翻訳することであり、その翻訳の作業が何よりも大変なのですから。
しかし、人間の頭のなかには、ただ「内言語」だけが漂っている∵わけではありません。たしかに、抽象的な概念は「内言語」によって意識されていますが、そうした言語とともに、さまざまなイメージが明滅しているのです。いや、言語よりも、イメージのほうが主要部分を占めているように思われます。
たとえば、あなたが、リンゴを食べたい、と思ったとします。あるいは友だちに会おうと考えたとする。その際、あなたの頭に、まずリンゴということばが浮かんだのか、それともリンゴのイメージが先に現れたのか。友だちの顔が先か、友だちという言葉が最初か。私はいまそれを自分に即して考えてみたのですが、どうも、はっきりしません。イメージが先のようでもあるし、ことばがまず浮かんだような気もします。
このように、イメージといっても、きわめて漠然としており、さらによく考えてみると、イメージは「内言語」と一体になっているようにも思えます。しかし、イメージの背後に「内言語」があったとしても、あるいは「内言語」の土台にイメージが形成されていたとしても、イメージと「内言語」とは、やはりどこかちがっている。イメージとは画像のようなものであり、「内言語」とはことばだからです。
(森本哲郎「ことばへの旅」)