メギ の山 3 月 4 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。ルビ付き表示

○自由な題名

★清書(せいしょ)

○人間がこの世に生きて持つ
 人間がこの世に生きて持ついろいろな体験は、人間の最大の教師だ。あることを目的として我々はそれを達成しようと試みる。そして失敗し、また成功する。その経験を、記憶の中で整理して知恵と呼ばれる理解力を得ることによって、類似した次の体験に我々は備える。その累積が何代も何代も続いて巨大なものに達したのが文化である。
 技術的な知恵のうち簡単なものは、教育によって容易に伝えることができる。しかし、理論や道具や機械のようなものが複雑になると、それを授ける人受け取る人が限られ、そこに専門家が生まれる。技術的な知恵は専門家にまかせておいていいことがある。
 肉体的なもの、心理的なもの、または道徳的、宗教的なものの伝授は、専門家のみで処理できない。乳の飲ませかた、子どもの育てかた、他人との交際の仕方、愛や悲しみの扱い方とその表現の仕方などは、あらゆる人間が、親や教師や先輩から受け取って、自分の生活の実質としなければならない。それ等を体得することは赤ん坊から大人になることであり、言わば動物から人間になることである。
 自分と他人との触れ合いかた、自分の内部に起こる欲求や喜びや悲しみの調整の仕方は、人間であることの根本条件につながっているがゆえに、その処理を誤ることは、生存の危機となり、破滅となる。我々の存在の外側にあるものは、特に専門的な知識や技能を必要とするものでない限り、我々はそれに慣れることができる。たとえば自転車に乗ることは、人間を疲労させるものだとしても、人間は、必要なときだけそれに乗り、不必要な時はそれを使わずにいることができる。自転車は我々から離れてそとにあるものであり、我々はそれを必要な時だけ利用する。
 しかし、自分の喜びや悲しみ、家族や勤務先の同僚などと接触せずに生きていることはできない。そういう事柄についての生き方の技術というべきものは利口な人間も利口でない人間もが、同じように学び取り、そして毎日を、毎時間をそれの処理に当たらなければならないことである。その処理の仕方として、礼儀とか倫理という一般的なものがあり、さらにより深いところからその種のことに∵ついての真理的な安定を得る方法としての道徳、愛憎、恋愛、宗教の教理などがある。
 そして我々が「体験」という言葉を、人間の生き方との関係において使うときは、このような体験のことを言う。そして宗教家や教育家が、我々を導くのもまたこのような部分においてである。この部分について、誰でもが自分の体験について何かの判断をしているものである。私の父は、田舎の村の収入役という目立たない仕事をしている人間であったが、何度か私たちに向かって言った。「人生というのは芝居をしているようなものだ。自分の当たった役割りをうまくやる外はない」と。たしか、私のおぼろげな推定では、私の父は村長になりたかったようである。その当時の村長は選挙でなく、前任者や村会議員たちの推薦によって地方の長官から任命されたものであった。父は内気な手固い人間であったので、村長に推挙される機会がなく、収入役で終わった。そのことに対しての不満とあきらめの感情がこの言葉の中に漂っていることを、二十歳ぐらいのとき私は感じた。

(伊藤整「体験と思想」)