ゲンゲ の山 3 月 4 週
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○自由な題名
★清書(せいしょ)
★ここで確認しなければならないのは
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ここで確認しなければならないのは、「わたしがわたしである」ことを「覚えている」ということは、過去の行動の完全な履歴が保存されるのではなく、思い出されるたびに変化し、意味付けの変わる記憶を維持しているということであり、そこには「忘却」も同じくらい必要とされるものであるということだ。すなわちそれは、「記憶」と「記録」が、質としてまったく異なるものであることを意味している。記録が記憶に果たす役割を考えるために、もう少し「記憶のあいまいさ」という点について述べてみよう。
認知心理学者の高橋雅延()によれば、私たちが「覚えている」と思っている過去の記憶も、実はかなりの程度あいまいさを残している部分があるという。高橋によると、私たちは一ヶ月前のことを、事実のとおりに思い出せると考えがちだが、実際には、時間をおくことで、五〇%前後の記憶が入れ替わってしまうというのだ。つまりそこで私たちは、「想起する記憶内容の一部を選択し、再構成している」のである。さらに言えば、何度も繰り返し思い出すことで、「虚偽の記憶」が現れる場合さえあると高橋は述べている。
その記憶のゆがみに影響を及ぼすのは、たとえば「暗黙理論」と呼ばれるような素人考えだ。暗黙理論とは、必ずしも明確な科学的根拠がないにもかかわらず、世間では信じられている知識や概念のことであり、具体的には、「幼少時のトラウマが人格形成に強く影響する」といった知識のことを指す。このように近年の記憶研究は、むしろ記憶が、他者や社会的な認知とのかかわりで容易に変化するような、あいまいなものであることに注目しているのである。
こうした知見に基づいて、心理学者は、「わたしはわたしのことを覚えている」という出来事が、文字どおり過去の出来事を脳内にストックするようなものではなく、思い出されることによって、それが新たに「記憶」として上書きされるような、「自己物語」の側面を持つと主張している。つまり、わたしがわたしであることの確信は、(「もうひとりの自分」のようなものを含む)他者への語りの中から生成してくるということだ。∵
だとすれば、そこで「記録」というメディアが、自己を形成するのに非常に重要な役割を果たすことは、容易に想像できるだろう。「高校時代の友人」が、どのような人だったのか、放っておけば私たちはすぐに忘れてしまう。しかし、日常にはあまり思い出されることのない相手であっても、卒業アルバムを見返したり、あるいはときにそれを別の友人に見せながら、「彼はこういう人でね」とか「ああ、こんな人もいたなあ、彼女はね……」と語ったりすることで、そのたびに「高校時代の自分」を構成することができる。そしてそれを通じて「あのときは意識しなかったけど、ほんとうはこの人のことが好きだったんだ」などといったように、記録をもとにした他者への語りを通じて、「いまの自分」に接続される自己物語を生成するのである。
ここには、記録というメディアと、自己によって物語られる記憶との間の、ダイナミックな関係を見て取ることができるだろう。
(鈴木謙介『ウェブ社会の思想』による)