レンギョウ2 の山 3 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)

○現在の私たちは
 【1】現在の私たちは、生命というものを個体性によってとらえる。たとえば、私という生命がある。あなたという生命がある。このふたつの生命は無関係な位置にあるのかもしれないし、何らかの結びつきをもった関係にあるのかもしれない、というように、出発点にあるのは固体としての生命である。
 【2】花ひとつひとつにも、木の一本一本にも、虫一匹(ぴき)一匹(ぴき)にも、もちろん動物や人間一人一人にも、それぞれ固有の生命があり、全体的世界を個体の生命の集合としてとらえる。
 しかしそれは、特に村においては、近代の産物だったのではないかと私には思えてくる。【3】もちろんいつの時代においても、生命は一面では個体性をもっている。だから個人の誕生であり、個人の死である。だが伝統的な精神世界の中で生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。【4】もうひとつ、生命とは全体の結びつきの中で、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なりあって展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと私は思っている。
 【5】この感覚は木と森の関係を見るとよくわかる。木はその一本一本が個体性をもった生命である。だから木の誕生もあるし、木の死もある。しかしその木は、もう一方において、森という全体の生命の中の木なのである。【6】しかも森の木は、周囲の木を切られて一本にされてしまうと、多くの場合は個体的生命を維持することもむずかしくなるし、たとえ維持できたとしても木の形が変わってしまうほどに、大きな苦労を強いられる。【7】森という全体的な生命世界と一体になっていてこそ、一本一本の木という個体的生命も存在できるのである。この関係は他の虫や動物たちにおいても同じである。森があり、草原があり、川があるからこそ個体の生命も生きていけるように、生命的世界の一体性と個体性は矛盾なく同一化される。
 【8】伝統社会においては人間もまた、一面ではこの世界の中にいた。人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。【9】人間は結びあった生命世界の中にいる、それと切り離すことのできない個体であった。
 伝統的な共同体の生命とはそういうものである。ところがその人間は「自我」、「私」をもっているがゆえに、共同体的生命の世界からはずれた精神や行動をもとる。∵
 【0】だからこそ共同体の世界は、地域文化が、つまり地域の人々が共有する文化が必要であった。それが通過儀礼や年中行事であり、それらをとおして人々は、自然とも、自然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれることによって自分の個体の生命もあることを、再生産してきた。

 (内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」から)