テイカカズラ の山 3 月 4 週
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○自由な題名
★清書(せいしょ)
○わたくしたちは、「美しい」
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美しい景色をみて思わず、「きれいね」と口にでて、たのしい思いになる、それでもう十分とも思いますが、そのたのしい思いにさせてくれるものの姿を、たしかめてみましょう。
美しいものと、美しくないものと、わたくしはいま自分の部屋を見まわして、よりわけてみました。
机の上のペン皿にあるえんぴつ、何本かのえんぴつの中で美しく目にうつるのは、けずりたてのえんぴつです。シンがまるくなったり、折れたままのは美しいとは思えません。
お皿に盛ったバナナは、あざやかな黄の色をしていて美しい。でも実をたべてしまった皮は、皮になった瞬間に、もう美しいとは思えませんし、色もまたたちまち黒ずんできたなくなってしまいます。
けずりたてのえんぴつが美しく目にうつるのは、「どうぞ、いつでもすぐに使えますよ。」と、すぐに役にたつ姿を見せてくれているからでしょう。
バナナの皮も、中に実をつつんでいるという、使命をもっているときは美しいのですが、その使命が終わって皮だけになった瞬間に美しくなくなります。
こうしたことを思うと、人に心よい感動をあたえる美しさとは、そのものが役にたつという姿を見せているところにあるのではないかと思われます。
花が美しい、木々が美しいというのは、その命の美しさを感じるところにあります。命とは活動することであって、つまり、役目をはたしている姿です。花も木も、せいいっぱいに生き、そして自分たちの子孫を永続させるために、花を咲かせ、実をならし、その命を充実させて、活動しているのです。
わたくしたちは働く人を美しいと見ます。どんなにどろんこでも、汗みどろでも、働く姿は美しい。どろんこも、汗も、働く姿の美しさを引きたてます。これは、働くという行為が、活動そのものであり、役だつ使命をはたすことであり、汗もどろんこもまた、そのためにあるからです。
でも、働くことをやめて、食卓にむかったときの、汗みどろ、∵どろんこは、きたない、もう美しくは目にうつりません。このときの、どろんこや汗は、労働という中味をとってしまったあとの残りもの、バナナの皮みたいな存在になってしまったからでしょう。食事をするという行為に、どろんこは不要です。そこで、きれいにさっぱりと洗いおとさなければなりません。
ですから、同じものでも、そのものが、そのものとして役にたたない場所にあるときは、美しく目にうつりません。
髪の毛は、髪にあるから美しい。ぬけおちた髪の毛が、食物の中にでもはいっていたら、とてもゆううつです。
ショーウィンドーの商品がみな美しく見えるのは、「このとおり、役にたちますよ」と、マネキンに着せてみせたりして、たのしく、わかりやすく飾られてあるからでしょう。
わたくしたちのおしゃれや、動作、マナーなども、その場にふさわしく、役にたつかたちであるとき、美しく見えるのです。
急ぐときは、きびきびした動作が美しく、人にものをたずねるときは、その人に教わるという気持ちをあらわすのに必要な謙虚な動作、教えるときは相手によくわかるようにする動作が、気持ちよく美しくうつります。
ここでひとこと、気づいたことをいいそえますと、必要と実用とは少しちがいます。
たとえば道を教わるとき、わたくしたちは、「すみませんが」ということばをそえますが、実用という面からいうと、このことばはなくてもよいわけです。「東京駅はどっちですか?」といえば、用はたせます。でも、それではぶっきらぼうです。「すみませんが」といいそえることで、心のあたたかみが伝わります。「どうぞお茶をお飲みください」のときの「どうぞ」も同じで、こうしたやさしさがあって、ことばも、動作も美しくなります。
「必要」と「実用」とを、どうぞ、まちがえないでください。
わたくしたちが生きてゆく上では、実用的な衣(い)・食・住のほかに、遊ぶことも、たのしむことも、安らぐことも必要です。そうした精神的に必要なものとして、やさしさや美がつくりだされています。
(高田敏子「詩の世界」)