テイカカズラ2 の山 3 月 4 週
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○自由な題名
★清書(せいしょ)
○日本人が外国に行って
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【1】日本人が外国に行っておみやげのなさの悲哀を味わうのと逆に、日本に来た外国人はおみやげの安価さと豊富さに驚き、かつ喜ぶ。舞子を描いたハンカチから、扇子、版画、各種竹製品にいたるまで、持って帰って喜ばれることうけあい、恰好なおみやげはいくらでもある。【2】絵葉書一つとってみても、白黒のやらカラーのものやらいろいろで、その組み合わせ方もヴァラエティーに富んでおり、風景別とか史蹟別のシリーズふうにもなっている。
【3】旅先から絵葉書を出すことは、異境での経験を共有しようというおみやげ精神の現われの一つである。厳島に参詣すると、おしゃもじが葉書の代用として売られているが、これなどは絵葉書とおみやげ品とをたくみにミックスしたものだ。【4】アジアの各地を旅行して気がつくことは、タイで売っている絵葉書は、紙質といい色彩といい、かなり上等だが、インドのはまことにお粗末。絵葉書に象徴されるおみやげ感覚の相違を示すものとして、それはその国における日本文化の浸透度を物語るバロメーターたりうるかもしれぬ。
【5】一般に、日本人のおみやげ感覚は、外国人にはまだよく理解されていない。西洋人はおみやげをもらうと、その場ですぐ中身をあけてみる。それがまた、当然のエチケットとされている。ところが日本では、そんなことをしたら失礼になる。【6】経験の共有がおみやげの精神なのだから、おみやげは持って帰って相手に分かち与えることそれ自身に意味があるので、中身は第二義なのだ。おみやげをもらうことがうれしいのであって、どんなものをおみやげにもらったかは従になる。【7】つまり、日本人がおみやげのもつ象徴的な意味を重視するのに対し、西洋人はおみやげの中身とそこに現われた実質性を尊重する。
だいたい日本人のおみやげ精神には、この人にはあれを、あの人にはこれを、と相手の人柄・境遇をいちいちおもんぱかって選択するというふうな、個性への忠誠意識は稀薄である。【8】あの人に∵はどんなものをあげれば喜ばれるだろうかということより、なにかをあげること自身が大切なのだ。西洋では贈り物の選択購入に相手の事情を考えた真情のこもっていることが必要である。つまり真情と実質は不可分のものとしてきり離すことはできないわけだ。【9】しかし、真情がこもらなければ実質的なやりとりができないとは、なんとシンドイことであるか。おみやげを含めて、一般に日本での贈答は、基本的には社会生活をなめらかに進行させるための社交手段である。【0】今日百貨店での歳暮・中元の贈答品といえば、会社が日頃のお得意さんに配る品物が主になっているのは、社交としてのおみやげ感覚がそのまま現代の状況のなかで活かされ、適用されていることを示すものだ。真情主義を基本とする西洋では、近代社会の社交としての贈答は形成されていない。
贈り物がシンボルである場合なら、中身はどうでもいいではないかというのが、真情=実質、シンボル即中身でなければならぬと一本で考える西洋の論理に対する、日本の贈答論理なのである。シンボルと中身とが、場合によっては、一致する必要はないのだから、見ばえが肝心ということになる。中身は少なくても、容器は大きいほうがいい。旅先でのおみやげに「上げ底」の品物が多いとよく非難されるが、日本人のおみやげ観にひそむ象徴的な意味を十分計算に入れてやられているものとしたら、一方的に排撃すべきものでもなかろう。たとえば、大きいのが二〇〇円で、小さいのが三〇〇円というまんじゅうがある。また、二〇〇円と三〇〇円の品物の容器の大きさが、まったく同じになっている洋風ケーキもある。つまりそこでは、その品物をシンボルとしてのおみやげに使うのか、それとも自家消費ないし実質的贈り物にするのか、用途によって製品の質や包装が分けられているのだ。
日本人は、ことおみやげにかけては高度に洗練された技能保持者である。