ペンペングサ の山 3 月 4 週
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○自由な題名
★清書(せいしょ)
★この連載の問題設定である
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この連載の問題設定である「思考の補助線」というタイトルには、その構想時において、ある危機意識が込められていた。
現代の知が図らずも断片化してしまっており、そのばらばらの破片をかき集めてみても、世界の像が一つに結ばない。そのような現状に対する個人的なあせりと悲しみのようなものを引き受けたうえで、じっくりと考えてみたいと連載を始めたときに思っていた。
一見、関係のないように見える分野の間に、補助線を引いてみたい。その補助線を引かなければ見えない新しい世界像、全体として浮かび上がってくるあるイメージを把握してみたい。そのような少なくとも私にとっては切実な思いが託されていた。
下手をすれば、ある分野の卓越した専門家であることを維持することですら可処分時間と自己のエネルギーのすべてを費やしても難しい、という時代である。自分の専門である脳科学においては、すでにそのような傾向があることを身近な問題としてよく知っている。同じ脳を研究しているはずなのに、視覚の専門家は前頭葉の統合過程を知らず、海馬における学習理論の研究者はシナプスの可塑性の分子メカニズムを知らない。そのような事態はすでに進行してしまっている。
想像するしかないが、歴史学でも、経済学でも、あるいは文学研究でも似たような事態が進んでいるのだろう。万葉の専門家は江戸時代の戯作者のことなどつゆ知らず、というのは当たり前のことなのかもしれないが、それでは満足できないという寂しい思いは誰の胸の中にもあるのではないか。
知の全体を見渡すことはもはや不可能なのだろうか? 一人ひとりの人間は人類全体が運営している「エクスパート・システム」の部品として、あるいは「グーグル」で検索されるべき知のアーカイブの部分担当者として、その職分を全うすることしかできないのだろうか?
検索エンジンの前には、文系の知も理系のそれもコンピュータのハードディスク上のデジタル・ビットにすぎない。それは、奇妙に私たちの魂を自由にする光景ではあるが、一方ではとてつもない脱力へと誘う事態でもある。そもそも、検索エンジンは世界全体∵どころか一つひとつの事物を引き受けることにすら、資することができないのだ。
知のサブカル化(=部分問題の解法ないしはレトリックとしてのみ知に取り組み、所有し、発信するということ)がポスト・モダニズムなど取り立てて参照するまでもなく進行してしまった現代において、知の断片化の現状を突き抜けるためにはよほどの覚悟と戦略が要る。そんな志向性はもはやポスト・デジタルの人類にとって余計なものでしかないのかもしれないが、それでも志向することだけは止めたくない。
アインシュタインは、「感動することを止めてしまった人は、死んでしまったのと同じである」という意味の言葉を残している。断片化した知をそのまま受け入れて、疑問を持たずにただ右往左往する人類はもはや本当は生きていないのではないか。
そもそも世界全体を引き受ける、ということは、一体どのようなことなのだろう?
世界に関する人間の知を集合としてその要素を書きならべてみることもできる。そして、その全体を同時に把握することを目指す、という考え方もある。そうだとすれば、やるべきことは、知の巨人、博覧強記の人への道をたどることだろう。諸学の書物に通暁し、さまざまな分野の最新の知見を網羅的に横断してみせる。そのような胆力のある人間は一つの理想像であるかもしれないし、また実際に過去にはそのような取り組みもあった。ゲーテやダ・ヴィンチ、南方熊楠のように、ある程度成功したと思われるような実例もある。
現代の知的状況の本質的問題点は、そのような百家全書派的な野望の実現が原理的に不可能だということが誰の目にも明らかだという点にある。たった一つの分野を取り上げてみたとしても、出版される論文、本の数は膨大である。どれほど卓越した記憶力と思考能力に恵まれた人間でも、現代の知の諸分野を一人でカバーすることなどありえない。
(茂木健一郎「思考の補助線」より)