ペンペングサ2 の山 3 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)

○地のままの金から鋳造された金貨へ
 【1】地のままの金から鋳造された金貨へ、軽くなった金貨から兌換を保証されている紙幣へ、兌換保証を失った紙幣からエレクトロニック・マネーへと変遷していく貨幣の系譜――【2】それは、まさに、「本物」の貨幣のたんなる「代わり」がその「本物」の貨幣になり代わってそれ自体で「本物」の貨幣となってしまうという「奇跡」のくりかえしにほかならない。もちろん、現実の歴史はこのような系譜をそのまま順を追ってなぞってはくれない。【3】飛び越しもあるだろうし、後戻りもある。だが、ここで重要なのは、どの時代においても、「本物」の貨幣とはそのときどきの「代わり」にたいするそのときどきの「本物」にすぎず、「本物」の貨幣の「代わり」とはそのときどきの「本物」にたいするそのときどきの「代わり」にすぎないということである。【4】そして、このような「奇跡」のくりかえしをとおして、貨幣の貨幣としての価値とモノとしての価値のあいだの乖離が拡大していく傾向をもつ。
 今度は、逆に、貨幣の系譜を現在から過去へとさかのぼってみよう。【5】エレクトロニック・マネーから紙幣、紙幣から金貨、金貨から……と順繰りにたどっていくと、地のままの金へとたどりつく。しかし、金塊や砂金がこの世の最初の貨幣であったわけではないだろう。【6】燦然とかがやく金といえども、それ以前に流通していた「本物」の貨幣の「代わり」として流通のなかに登場してきたのにちがいない。たとえば、ポール・アインツィヒが著した原始貨幣にかんする書物をひもといてみれば、そこには、金のほかに、銀、銅、青銅、鉄、鉛、【7】黒曜石、石の円版、ガラス玉、陶片(とうへん)、指輪、塩、矢、刀、斧、鉄砲、木材、樹皮、小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤム芋、砂糖、茶、ラム酒、ジン、タバコ、笛、太鼓、毛布、麻布(あさぬの)、綿布、絹布、羽毛、毛皮、【8】皮革、牛、羊、水牛、豚、トナカイ、干し魚、バター、子∵安貝、法螺貝、カタツムリ貝、鯨の歯、犬の歯、豚の歯、蜜蝋、そして人間のドレイといったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣として流通していたことが書かれている。【9】そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣が貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。なんらかの意味での耐久性さえもっていれば、どのようなモノでも貨幣として使われてきたのである。【0】だが、ここで強調すべきことは、たとえそれが鉱物であったとしても、植物であったとしても、動物であったとしても、人間であったとしても、さらにまたそのいずれにも分類できない得体の知れないモノであったとしても、貨幣がこの世にはじめて貨幣として登場したその瞬間に、それはモノとしての価値を上回る貨幣としての価値をもつことになったということである。そもそもその始原から、貨幣としての貨幣とはモノとしての存在以上の存在であり、モノとしての貨幣とは貨幣としての存在以下の存在である。カッコがつかない本物の貨幣、いや本モノの貨幣という言葉は、自家撞着以外のなにものでもない。
 貨幣の系譜をさかのぼっていくと、それは「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」の貨幣になってしまうという「奇跡」によってくりかえしくりかえし寸断されているのがわかる。そして、その端緒にようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の貨幣へと跳躍しているさらに大きな断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、貨幣で「ない」ものの「代わり」が貨幣で「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。

(岩井克人()『貨幣論』による)