ハギ の山 4 月 4 週
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○自由な題名
○お花見
★清書(せいしょ)
○最近の日本には
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【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
ヨウはかまどに薪をくべているるい婆さんに蒲団の中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい婆さんはもやのたちこめる暗い土間の隅にしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
「春の夢でも見たんかや」
と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた孫娘に、
「ああ、もうとっくに日向ッ原(ひなっぱら)じゃ春の歌がはじまっとるぞ」
とうれしそうに笑いかけた。
ヨウはおおきな目をかがやかせて、蒲団を跳ね上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ寝間着のまま外へ走り出した。
「こらっ、顔を洗ってから行かんか」
背後で聞こえる、るい婆さんの声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる裏手の段々畑までの畔道(あぜみち)をかけ上がって行った。
昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように跳ねながら走る。イモ畑を越え蜜柑の木の下を抜けて、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
半月余り続いた雨が上がった瀬戸内海は無数の波頭(なみがしら)が西へむかう鳥の群れのように踊っていた。ヨウは肩で息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって突き出した皇子(みこ)岬、左手にとんがり帽子のように頭を見せる岬の白い岩肌が草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
ヨウは大声で叫んだ。
日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に咲いていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに映った。
「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」∵
ヨウはその場で飛び跳ねると、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に抱きついた。モグは喉を鳴らしてから、ヨウの身体を釣り上げるように首を回した。
(伊集院静「機関車先生」)∵
【1】最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか専門家というか、プロフェッショナルが敬遠され始めた。なぜそうなったか分析はしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。【2】何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな価値観がはびこっています。
たとえば審議会などに参加しても、普通の人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。【3】その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報源に基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。【4】またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを頻繁に見かけます。
本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。【5】プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして把握しています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ危険きわまりない。【6】もっとも、最近の政治家も大衆に迎合するばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの我が国は、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
【7】ここでいうアマチュアとは、その主張の根拠がほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている範囲のことをすべてだと思い込み、あたかもそれが正論であるかのように、堂々としゃべる。そんな風潮が目につきすぎます。
【8】結局、そういう人たちには謙虚さがないということです。実際のところはよく知りませんが、私の知っている範囲はこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを拡大して、人類一般の普遍的な話としてどうのこうのというような議論までするわけです。【9】こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。∵
プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。【0】自分の頭できちっと考えることができる、しかもその座標軸は古今東西の歴史から、芸術、哲学に通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の尺度を持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
秀才と呼ばれ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる秀才というのは所詮、与えられた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初から我(が)がある、などという誤った前提に立ったために、教育と呼べるような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。
(松井孝典『コトの本質』(講談社))