マキ の山 4 月 4 週
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○自由な題名
○勇気
★清書(せいしょ)
○じつは私は二〇代前半まで
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【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
妹が隆(たかし)に、あんなのほしかったなあ……と、小さな声で言ったのは、夏も終わりのころのことであった。隣の屋根でのんびり寝そべっている野良猫を見てのことばである。「母さんの猫嫌いは知ってんだろ」。「ううん、違うの。お祭りのときお店で見かけた招き猫なの」。「どの店だよ? 」。「七味とうがらしの出店」。「……そりゃ、今さら無理だよ」。「だからもういいの」。これだから困るのである。隆は招き猫探しにでかけることにした。
招き猫を飾ってある店は見かけても、売っている店はたいそう少なかった。土産物店で見つけても、いやに小さくて貧相なのである。やっぱり秋祭りまで待つしかないか・・・・・と、隆は思った。しかし、珍しく妹がほしがったことを考えると、隆は何とか早いとこ見つけて持ち帰り、妹を驚かせてやりたかった。自分も気に入り、妹も一目で気にいるやつを早いとこ見つけたかった。
それが、ないのである。招き猫にも、実にいろんな人相(?)のものがあることに、隆は初めて気がついた。大きさ、姿、表情、色……と四拍子そろって、一目ぼれできる招き猫となると、売り物どころか、見かけるのだってむずかしいことに、隆はやっと気がついた。
思いあぐねて明(あきら)のやつに相談することにした。話を聞いた明は、隆の顔をまじまじと見つめた。「招き猫だなんてお前、どういう趣味なんだ。おれの親友だとは思えん。ほしがるにこと欠いて、そんなおじんくさいもの、目をつけやがるなんて」。「すまん、じつはほしがっているのは妹なんだ」。そう打ち明けると、明の態度はがらりと変わった。
妹の趣味まで何か言われそうだとかまえていた隆は肩すかしをくらった感じだった。同時にもう一つの何かも感じていた。「いっしょに探してやるよ」。明のやつは急に親切になった。
(今江祥智(いまえよしとも)『今日も猫日和』)∵
【1】じつは私は二〇代前半まで、旅行好きというには程遠かった。身体を動かすことは大嫌いで、部屋にこもって音楽を聴いたり本を読んだりするのを好む人間だった。旅らしいことといえば、東京から大分までの帰省を毎年三回ほどするくらいだった。
【2】ところが、大学院でフランス文学を勉強しはじめたころから、フランスに行ったことがないのでは話にならないという気になりはじめた。そこで、奨学金を貯め、親にも援助してもらって、一九七七年の三月、初めてフランスを訪れた。【3】まだ成田空港は開港しておらず、パリもまだオルリー空港を使っていたころだ。格安料金の大韓航空機を利用して、ソウル、アンカレジ周りで二四時間以上かけてパリに行った。ついでに、ドイツ、オーストリア、イタリアにも足を伸ばすことにした。
【4】そして、ヨーロッパでしばらく過ごすうち、フランスという国に関心を持つという以上に、旅行そのものに目覚めてしまったのだ。
旅行の最大の楽しみ、それは「驚き」と「うろたえ」だ。
外国の観光地を見る。生活を見る。そこで行動して、人間に触れる。【5】これまでと違った価値観に遭遇する。日本にいて予想していたのとまったく違う光景、まったく違う反応に出会う。そして、驚き、うろたえる。
日本人としては、それでもなお日本式の生活をしようとすることもある。だが、そうすればするほど、困った事態に陥る。【6】だが、それがまた楽しい。それまで絶対的に真実と思っていたことが揺らぎ、これまでの価値観が揺り動かされる。
最初の旅行でまず驚いたのは、道を歩くのは、きれいに着飾った白人のパリジャンやパリジェンヌばかりではないということだった。【7】そもそもパリは白人だけの都市ではなかった。私はモンパルナスの一つ星の安ホテルを基点にしてパリ見物をはじめたが、歩く場所によっては、目に入る人間の一〇〇パーセントが有色人種だということも珍しくなかった。【8】地下鉄に乗っても、有色人種のほうが多いということがしばしばあった。しかも着飾っている人は少ない。ジーンズに革ジャン姿が圧倒的に多い。日本で予想していたような上品な白人はめったに見かけない。∵
数日後、フォブール・サントノレを歩いた。【9】日本でいえば銀座のようなところだ。そこで初めて頭の中で想像していたパリの光景に出会えた。エレガントなパリジェンヌがいた。
そこで気がついた。貧乏学生である私がほっつき歩いていたのは、貧しい地域だったのだ。【0】そこには、貧しい白人や有色人種が多かった。フランスは階層社会だったというわけだ。しかも、すでにフランスにはアラブ系、アフリカ系の移住者が押し寄せ、その人たちが新たな下層社会を作り上げていた。(中略)
最初のヨーロッパ旅行で、私はこのような光景を見るうち、旅というものの楽しさを知ったのだ。そして、それが病みつきになり、その後、時間とお金に少し余裕ができてからは毎年のように海外旅行に出かけた。
(中略)
ときには異文化のなかにかつての日本と同じような光景を見かけて、人間の普遍性を痛感することもある。日本とまったく文化の異なるフランスでも、日本人と同じような反応にしばしば出会った。一九九四年には友人とラオスに行って、メコン川の川原で凧揚げをして遊ぶ子供たちを見て、四〇年前、九州の片田舎の川原で遊んだ自分の姿が重なった。
私は、旅行での様々な驚きやうろたえや失敗の経験を書き綴ってきた。
もちろん、この程度の旅で大旅行家などとはいえない。私はたかだか三〇ヵ国を旅行したに過ぎない。私よりもたくさんの旅行をし、たくさんの経験をした人は多いだろう。
だが、私は幸い、ほかの人よりも自由な仕事についていたため、勝手気ままにあちこちを動き回ることができた。冷戦時代の東欧六ヵ国を含む六〇日間の新婚旅行、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)旅行、カンボジア旅行などにも出かけることができた。しかも、好奇心旺盛で、なおかつおっちょこちょいときているので、あちこちで少々危険な目にあった。そして、そのおかげで、自分の目でその時代その時代の社会を見て、様々な経験をし、驚き、うろたえることができた。今となっては、これは私の財産といえるものだ。
(樋口裕一(ゆういち)『旅のハプニングから思考力をつける!』)