ザクロ の山 4 月 4 週
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○自由な題名
○運
★清書(せいしょ)
○私は『牡丹灯籠』の速記本を
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【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
【1】経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった公共の目的を促進することになる」。【2】ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。
【3】経済学者の「悪魔」ぶりがもっとも顕著に発揮されるのは、環境問題に関してでしょう。多くの人にとって、資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源です。環境破壊とは、私的所有制の下での個人や企業の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。
【4】だが、経済学者はそのような常識を逆なでします。私的所有制とは、まさに環境問題を解決するために導入された制度だと言うのです。
【5】『かつて人類は誰のものでもない草原で自由に家畜を放牧していました。家畜を一頭増やせば、それだけ多く肉や皮やミルクがとれます。草原は誰のものでもないので、家畜が食べる牧草はタダです。【6】確かに一頭増えれば他の家畜が食べる牧草が減り、その発育に影響しますが、自由に放牧されている家畜の中で自分の家畜が占める割合は微々たるものです。それゆえ、人々は草原に牧草がある限り、自分の家畜を増やしていくことになります。【7】その結果、牧草は次第に枯渇し、いつの日か無数の痩せこけた家畜がわずかに残された牧草を求めて争い合う事態が到来することになると言うのです。』
【8】これこそ「元祖」環境問題です。そして経済学者は、それは、自然のままの草原が誰の所有でもない共有地であるがゆえの悲劇であると主張します。【9】環境問題とは「共有地の悲劇」だと言うのです。
『事実もし草原が分割され、その一画を牧場として所有するようになると、その中の家畜はすべて「自分の」家畜となります。【0】∵その時さらに一頭飼うかどうかは、その一頭が新たに牧草を食べることによって、牧場内の他の家畜の発育がどれだけ影響を受けるかを勘案して決めるようになるはずです。もはや牧草はタダではありません。他人に牧場を貸したり売ったりする時でも、その中の牧草の価値に応じた賃料や価格を請求するようになるはずです。牧草は合理的に管理され、共有地の悲劇から救われることになります。私的所有制の下での自己利益の追求こそが環境破壊を防止することになると言うわけです。」
「悪魔」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧です(私自身この論理を三十年間教えてきました)。実際、一九九七年の地球温暖化防止に関する京都議定書は、この論理を取り入れました。先進諸国に温暖化ガスの排出枠を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。
ここでは温暖化ガスが汚染する大気は家畜が食べ荒らす牧草に対応し、各国が売買しうる排出枠は牧畜家が所有する牧場に対応しています。すなわち、それは大気という自然環境に一種の所有権を設定することによって、それが共有地である限り進行していく温暖化という悲劇を解決しようとしているのです。
では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしょうか?
答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。
それは「未来世代」の環境です。
(岩井克人()「未来世代への責任――経済学の「論理」と環境問題の「倫理」――」による)∵
【1】私は『牡丹灯籠(どうろう)』の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹灯籠(どうろう)の怪談の件を読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。【2】それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭(てい)という寄席へ出て、彼(か)の『牡丹灯籠(どうろう)』を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようであるが、あたかもその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂え向きの宵であった。
【3】「お前、怪談を聴きに行くのかえ」と、母は嚇すようにいった。
「なに、牡丹灯籠(どうろう)なんか怖くありませんよ。」
速記の活版本でたかをくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。【4】円朝がいよいよ高座にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥(の)んで聴きすましている。伴蔵()とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸のあたりは何だか冷たくなって来た。【5】周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにもかかわらず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに座って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。【6】高座の蝋燭(ろうそく)の火も薄暗い。外には雨の音が聞こえる。それらのことも怪談気分を作るべく恰好の条件になっていたには相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
【7】この時に、私は円朝の話術の妙ということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖(おそ)ろしくも感じられ∵ない怪談が、高座に持ち出されて円朝の口に上ると、人を悸えさせるような凄味を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。【8】時は欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹き捲くっている。学校に通う生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。【9】その時代にこの怪談を売り物にして、東京中の人気を殆ど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとはいえ、確かに円朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じている。【0】(中略)
前にもいう通り、話術の妙をここに説くことは出来ないが、たとえばかの孝助が主人の妾(めかけ)お国の密夫源次郎を突こうとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷をぬけ出して、将来の舅たるべき相川新五兵衛の屋敷へ駈け付けて訴える件など、その前半は今晩の山であるから面白いに相違ないが、後半の相川屋敷は単に筋を売るに過ぎないであまり面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々に看過ごされてしまう所である。ところが、それを高座で聴かされると、息もつけぬほどに面白い。孝助が誤って主人を突いたという話を聴き、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎……と声をかけて突かないのだ」と叱る。文字に書けばただ一句であるが、その一句のうちに、一方には一大事出来(しゅったい)に驚き、一方には孝助の不注意を責め、また一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現れて、新五兵衛という老武士の風貌を躍如たらしめる所など、その息の巧みさ、今も私の耳に残っている。団十郎もうまい、菊五郎もうまい。しかも俳優はその人らしい扮装をして、その場らしい舞台に立って演じるのであるが、円朝は単に扇一本をもって、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙を尽くしたものといってよい。名人はおそるべきである。
(岡本綺堂『岡本綺堂随筆集』による)