ライラック2 の山 4 月 4 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。◆ルビ付き表示▲
○自由な題名
○運
★清書(せいしょ)
○私たちにとって、学校教育は
◆
▲
【1】私たちにとって、学校教育はなぜ必要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの実生活の経験の積み重ねに任せるのではなく、なぜ教育のための特別な場所が必要なのか。この問いかけに対しては、いくつかの理由が考えられます。
【2】第一に、世界はあまりにも広く、私たちがそのすべてを経験することはできないからです。しかも、私たちが世界と呼んでいるものの多くはすでに失われた過去であり、現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には存在しません。【3】歴史と呼ばれ、人類の記憶の中にしかないものがほとんどでしょう。経験は記憶によって濾過され、それと照合されて、初めて経験として完成されます。
森鴎外の短編小説『サフラン』に、サフランをめぐる次のような思い出話が出てきます。【4】この植物の名は本で早くから知っていたが、まだ実物を見たことがない。そこで医師であった父親に頼み、薬棚の抽斗から乾燥したサフランを出してもらう。「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。【5】すべての物にある。」といった感慨を綴った作品ですが、考えてみれば、われわれがいうところの現実とは、半ば以上、森鴎外におけるサフランのようなものではないでしょうか。
第二に、私たちが何らかの現実行動をうまくなしとげるためには、行動をいったん棚上げし、目的を一時保留して行動しなければならないからです。【6】言い換えれば、現実行動にあたって失敗を避けるには、まずもって練習をしなければなりません。野球選手のバットの素振(すぶ)りが好例でしょう。飛んで来てもいないボールを相手にバットを振ります。そのことによって、彼はバッティングという行為のプロセスを意識し、身に付けようとしているわけです。
【7】私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返しても、決して高まることはありません。現実行動は練習のうえで初めて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使するプロセスを絶えず見直し、身に付け直さなければならないのです。【8】学校というものは、その意味で、現実行動からひとまず離れて、行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。つまり教室は行動の場ではなくて、練習の場なのです。∵
また、私たちが行動するためには型を持つ必要があります。【9】武術一つを取り上げても明らかでしょう。刀をただ振り回していれば強くなるというものではありません。面を打ち、籠手(こて)を打ち、突きを入れるという型をまず身に付け、それが、まるで無意識であるかのように流露してくるところに武術は成立します。【0】型は、行為のプロセスを支えてくれるのです。
日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲しいときにはなりふりかまわず泣きたくなるものですが、そこに悲しみ方の型が入ってきたとき、初めて私たちは悲しみに耐える能力も身に付けることができるのです。芥川龍之介の短編小説『手巾(ハンカチ)』に、息子を亡くしたばかりの婦人が端然と客を迎えながら、しかし、机の下では「膝の上の手巾(ハンカチ)を、両手で裂かないばかりにかたく、握っている。」という場面があります。つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」とあるように、彼女は「息子を亡くした母」という型を、あるいは役をその場で演じることによって、身も世もない悲しみに耐えることができたし、また醜態をさらさずに済んだわけです。
教育が必要な理由の最後は、多くの知識が経験からは直接に学べないからです。
現代の先進社会の人間ならば、だれでも地動説が正しいということを知っています。しかし、だれ一人として地球が太陽の周りを回っているのを見た人もいなければ、その動きを実感した人もいません。日常では、太陽が朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈みます。昔の人も現代人もそれを経験上知っていますが、真実はそうではないということを、知識として身に付けているのが現代人でしょう。
(山崎()正和「文明としての教育」の文章による)