マキ の山 5 月 4 週
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○自由な題名
○音楽
★清書(せいしょ)
○昔の人の脳と、いまの人の脳は
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【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
働きはじめた記念に、腕時計を買ってくれたのは、兄であった。それに寿命がきて、自分のふところから次の時計を購った。そのころ流行らなかったアラビア数字の文字盤のを選んだのは、父の古い懐中時計に対するあこがれが、心の底に残っていたからだろうと思う。安価なものだったが、寿命は長かった。いまのは四代目になるが、例の液晶時計である。毎日ネジを巻いてもやらないのに、健気にも正確に動いている。何だか、自分自身、そして、この世に在る働き好きの男や女に似ているようで、つらくなる。
働いて働いて、その行くさきが、働く同士のしあわせならいうことはないが、その逆になるのだったら、これは困る。
そんな、時計の針を逆まわりさせるようなことに、私の時間を使いたくないし、使われたくない。
村の駅にあったあの振子時計は、戦場に送られるたくさんの若者と、白木の箱になって帰ってきたたくさんの若者をしっかりと見ていた。その時計は、いまははずされて、電気時計にかわっている。けれども、そのあたらしい元気ものの駅の時計に、古い振子時計が見たものと同じものを見せたくない。
私たちの時計、目に触れるあらゆるまちの時計に、かつて犯した人間にそむく歴史の時間をふたたびきざませていいものか。
時計は何故(なにゆえ)、時をきざむか。
私たちは、何故に時間を恵まれるのか。つまり私たちは、何故こうして生きて、暮らしているのだろうか。よくはわからないけれどもただひとつ言えることは、人の命を奪ったり奪われたりする戦争なんかのためではない、ということである。私たちが、これからどう生きるか、それを時は見守っている、と思う。私たちのあらゆる時計に、あやまった歴史をきざませてはなるまい。
(増田れい子『インク壺』)∵
【1】昔の人の脳と、いまの人の脳は、どう違うか。
昔の人の骨と、いまの人の骨、これはどう違うか。私が現物について、いくらか知っているのは、骨のことでしかない。その骨から考えるなら、四、五万年前このかたの人類は、根本的にはいまの人と同じ骨をしている。【2】だから、その頃から現代まで、人は同じような脳をしていたに違いない。そういう結論になる。
それ以前の人は、どうか。それなら、人類学でいう旧人、すなわちネアンデルタール人のことになる。これはもう、いまの人とは、骨がはっきり違っている。【3】実際に旧人は、われわれとは、脳がかなり違っていたのではないか。私はそう疑っている。
では、旧人と、いまのわれわれ、すなわち新人は、どこが違うか。最大の違いは、新人におけるシンボル体系の存在と、その豊富さであろう。【4】要するに、お金とかお守りとか、賭け事とかバクチとか、科学とか宗教とか、芸術とか演劇とか、それ自体は実用に役に立たず、約束事で成立するもの、そういうものが、旧人にはあまりなかったと思われる。
【5】われわれが常識としているような種類の言語、これも旧人では欠けていたか、不十分だった可能性が高い。そう私は考えている。ことばは、シンボル体系の典型だからである。
見てきたわけでもないのに、そんなことが、なぜわかるか。【6】それは、それに関する遺物が、旧人の遺跡からは出てこないからである。クロマニョン人、すなわち新人になると、突然、洞窟の壁画が出てきたりする。あんな見事な絵は、私にはとうてい描けない。あるいはお守りらしい、わけのわからぬ細工ものが出る。【7】それが旧人だと、石で作った刃物の類ばかり。これは実用性が高い。道具を見るかぎり、ある程度以上古い時代の人たちは、たいへん実用的だったということになる。
それでは面白くない。昔の人には、いまの人にない超能力でもなかったのか。【8】それは、さまざまなマンガに描かれているから、そういうものを見てくださればいい。いまの人が超なんとかを好むのは、いつも思うのだが、自然への感受性を失ったからであろう。自然を見ていれば、それ自体がほとんど超能力に見える。∵【9】よく考えてみれば、不思議なことばかりなのである。もしその具体例を、自分の経験から思いつけないとすれば、あなたはすでに自然への感覚をほとんど失っている。自然がもはや不思議とは思えなくなっているからである。【0】
さてそれが、同じ新人のなかでの昔の人といまの人、そのいちばん大きな違いであろう。自然の実在と、自然の不在。いまの人はおおかた人工環境に住む。これはなんでもないようだが、人間の思考をすっかり変えてしまうはずである。そこには自然がない。あるのは、人の作ったものばかり。まわりがすべてそれなら、人はそれだけを考えるようになる。それしか、ない。
そうなると、脳はどうなるか。わが世の春であろう。人工環境とは、脳が作ったものだからである。脳は脳のなかに住む。それ以外のものは、邪魔だ。こうして、われわれ現代人の持つ脳は、脳のなかに置かれた脳、それだけになった。
じつはそれは、脳だけではない。同じ新人でも、古い骨を見ると、ずいぶんと使い込んであることがわかる。たとえば噛むことに関係する部分は、昔の人では、たいへんよく発達している。それに比べて、現代人はほとんど「家畜」といってもいいであろう。固いものなど、子どもの頃から噛まない。
現代人は、水や食物を探しに行く必要はない。ただ冷蔵庫をのぞけばいい。したがって、そういうものの、自然の「ありか」に対する感覚はない。気温は調節されてしまう。だから身体が調節する必要はない。そうした生活でできあがるのが、われわれの脳である。それはきまりきった生活に慣れた、家畜の脳であろう。
人は多くの動物を家畜化した。次はもちろん人間の番である。私は頭骨を二つ、机の上にいつも置いている。一つは野蛮人のもので、もう一つは、家畜人のものである。長いあいだ置いておくと、どうしても野蛮人の骨のほうが、骨として見事だという気がしてくる。だから、私が贔屓するのは、野蛮な脳である。私の感覚が、おそらく野蛮なのであろう。
(養老孟司『脳のシワ』)