マキ2 の山 5 月 4 週
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○自由な題名
○音楽
★清書(せいしょ)
○昔の人の脳と、いまの人の脳は
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【1】昔の人の脳と、いまの人の脳は、どう違うか。
昔の人の骨と、いまの人の骨、これはどう違うか。私が現物について、いくらか知っているのは、骨のことでしかない。その骨から考えるなら、四、五万年前このかたの人類は、根本的にはいまの人と同じ骨をしている。【2】だから、その頃から現代まで、人は同じような脳をしていたに違いない。そういう結論になる。
それ以前の人は、どうか。それなら、人類学でいう旧人、すなわちネアンデルタール人のことになる。これはもう、いまの人とは、骨がはっきり違っている。【3】実際に旧人は、われわれとは、脳がかなり違っていたのではないか。私はそう疑っている。
では、旧人と、いまのわれわれ、すなわち新人は、どこが違うか。最大の違いは、新人におけるシンボル体系の存在と、その豊富さであろう。【4】要するに、お金とかお守りとか、賭け事とかバクチとか、科学とか宗教とか、芸術とか演劇とか、それ自体は実用に役に立たず、約束事で成立するもの、そういうものが、旧人にはあまりなかったと思われる。
【5】われわれが常識としているような種類の言語、これも旧人では欠けていたか、不十分だった可能性が高い。そう私は考えている。ことばは、シンボル体系の典型だからである。
見てきたわけでもないのに、そんなことが、なぜわかるか。【6】それは、それに関する遺物が、旧人の遺跡からは出てこないからである。クロマニョン人、すなわち新人になると、突然、洞窟の壁画が出てきたりする。あんな見事な絵は、私にはとうてい描けない。あるいはお守りらしい、わけのわからぬ細工ものが出る。【7】それが旧人だと、石で作った刃物の類ばかり。これは実用性が高い。道具を見るかぎり、ある程度以上古い時代の人たちは、たいへん実用的だったということになる。
それでは面白くない。昔の人には、いまの人にない超能力でもなかったのか。【8】それは、さまざまなマンガに描かれているから、そういうものを見てくださればいい。いまの人が超なんとかを好むのは、いつも思うのだが、自然への感受性を失ったからであろう。自然を見ていれば、それ自体がほとんど超能力に見える。∵【9】よく考えてみれば、不思議なことばかりなのである。もしその具体例を、自分の経験から思いつけないとすれば、あなたはすでに自然への感覚をほとんど失っている。自然がもはや不思議とは思えなくなっているからである。【0】
さてそれが、同じ新人のなかでの昔の人といまの人、そのいちばん大きな違いであろう。自然の実在と、自然の不在。いまの人はおおかた人工環境に住む。これはなんでもないようだが、人間の思考をすっかり変えてしまうはずである。そこには自然がない。あるのは、人の作ったものばかり。まわりがすべてそれなら、人はそれだけを考えるようになる。それしか、ない。
そうなると、脳はどうなるか。わが世の春であろう。人工環境とは、脳が作ったものだからである。脳は脳のなかに住む。それ以外のものは、邪魔だ。こうして、われわれ現代人の持つ脳は、脳のなかに置かれた脳、それだけになった。
じつはそれは、脳だけではない。同じ新人でも、古い骨を見ると、ずいぶんと使い込んであることがわかる。たとえば噛むことに関係する部分は、昔の人では、たいへんよく発達している。それに比べて、現代人はほとんど「家畜」といってもいいであろう。固いものなど、子どもの頃から噛まない。
現代人は、水や食物を探しに行く必要はない。ただ冷蔵庫をのぞけばいい。したがって、そういうものの、自然の「ありか」に対する感覚はない。気温は調節されてしまう。だから身体が調節する必要はない。そうした生活でできあがるのが、われわれの脳である。それはきまりきった生活に慣れた、家畜の脳であろう。
人は多くの動物を家畜化した。次はもちろん人間の番である。私は頭骨を二つ、机の上にいつも置いている。一つは野蛮人のもので、もう一つは、家畜人のものである。長いあいだ置いておくと、どうしても野蛮人の骨のほうが、骨として見事だという気がしてくる。だから、私が贔屓するのは、野蛮な脳である。私の感覚が、おそらく野蛮なのであろう。
(養老孟司『脳のシワ』)