ナツメ の山 5 月 4 週
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○自由な題名
○落書き
★清書(せいしょ)

 体育の時間に、レオナをはげましたりするのも、みんなの目を気にせず、平気でできるようになった。
 ぼくたちの学校は、毎年、五月の末に、マラソン大会があって、さいきん、体育はマラソンばっかり。
 レオナにとっては、そりゃあたいへんなんだ。
 しかも、一年、二年、三年は、それぞれ、校庭を一周、二周、三周だけど、四年からは外にでる。
 ぼくたち四年生は、まず、校庭を二周して、正門から外へでて、学校のまわりをぐるっと一周し、さいごにまた、校庭を一周。全部で、約一・二キロを走らなければならないんだ。ぼくだって、キツイぜ、これは。
 体育の時間にはじめてこのマラソンコースを走った時、ぼくは、クラスの男子十八名中、九位でゴールインした。ぼくとしては、十位以内だったから、うれしかったんだけど、いつまでたっても、レオナがもどってこない。先生にたのまれて、ぼくはしオナをむかえにいった。
 レオナは、学校の角をまがって、ちょっといったあたりを、ずるずる、のろのろ、歩いて、いや、走っていた。つまり、やっと校庭を二周して、外へでたところだったんだ。
「だいじょうぶかよ、レオナ。がんばれよな。」
「ああ。がんばるよ。がんばってるよ。」
 とはいうものの、あせはダラダラ、息はハアハア。苦しそうで、とても見てられなかったな。
 ぼくたちが、やっと学校の裏門あたりまできた時、後ろから、先生をはじめ、クラスの連中が、ドヤドヤ、おいかけてきた。
「なんだ。まだ、こんなところかよ。」
「おっそいなあ。」
「もしもし、かめよ、かめさんよ――。」
「やめなさい。どうしてそんなこと、いうんですか。――星くん、だいじようぶ? つらかったら、やめてもいいのよ。」
 心配そうに先生はしオナの顔をのぞきこんだ。でも、レオナは、はげしく首をふって、
「いいえ、だいじょうぶです。さいごまで、やります。」
 先生がちらっとうで時計を見て、まゆをひそめたのを、ぼくは見のがさなかった。まあ、むりはないけどね。だって、その日の体育は、それですっかりつぶれちゃったんだから。
 これは、あとでレオナから聞いたんだけど、先生はそのよく日、レオナを職員室へよび、マラソン大会は見学にしたらどうかと、すすめたのだそうだ。
「そりゃあ、星くんの気持ちはよくわかるわ。でも、なにかあったら、学校の責任になってしまうのよ。」
 先生、そういったんだってさ。
「で、おまえ、なんていったんだよ?」
「ぼくはやりたいっていったんだ。なん時間かかってもいいから、さいごまで走りたいって。だって……。」
と、レオナはちょっと、口ごもって、
「ずるいだろう? そんなの。病気でもないのに……。」
「ああ。そうだよな。」
 雨が降ればいいのに、と、その時、ぼくは思った。
 マラソン大会の日、雨が降ればいいのに。

「宇宙人のいる教室」(さとうまきこ)より

○樹木は生命の危険を感じると
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 南博人(ひろと)は従順な子であり、いたずらっ子でもあった。先生に反抗らしい態度に出たことは一度もなかった。しかし彼は、そのとき、先生が言った最後の言葉に疑問を持った。ひとりで山へ入ったならば、自力で頂上へ出ることは困難であるということに嘘を感じた。札幌の郊外にある藻岩山は、彼が生まれた時から馴れた山だった。道をそれても、上へ上へと登っていけばやがては頂上へ出られる筈である。それは小学校五年生の理屈であった。
「おい、南どうした」
 列が動き出しても頂上の方も見詰めたまま突立っている南に不審をいだいて隣の少年が話しかけた。
「おれは、山の中へ入る。先生に言うなよ、言ったら、げんこつくれてやるぞ」
 南の受持ちの先生のあだなはげんこつ先生である。悪いことをすると、げんこつをくれるからである。南はげんこつ先生の真似をして、隣の少年をげんこつでおどかしてやぶの中へ飛びこんだ。やぶの中を頂上まで登る気はなかった。道をそれたら、頂上へ出られないという先生のことばが、ほんとうか嘘かたしかめたかったし、同時に彼は山の中がどんな構造になっているかも知りたかった。彼はクラスで走るのは一番速かったから、五分や十分の道草を食っていても、直ぐ追いつける自信があった。それにげんこつを見せた以上、誰かが先生に告げ口をするということはまず考えられなかった。彼は餓鬼大将だった。
 彼はやぶへ入った。木が密生している間をかいくぐっていくと、木の芽の強い芳香が彼の鼻をくすぐった。彼は幾度かくしゃみをした。くしゃみが誰かに聞えはしないかと、耳を済ませたが、もう少年たちの足音は聞えなかった。
 彼はにっこり笑った。たいへん面白い考えが浮かんだからである。少年たちは六十名いた。彼等が先生に引率されて頂上に達するまでに、先廻りをして頂上に行ってやろうという野望を起した∵のである。先廻りをした罪で、げんこつ先生に一つぐらいげんこつを頂だいしてもかまわないと思った。
 彼は森の中を頂上目がけて登り出したが、道のないところを登ることがいかに困難であるかを知ると、彼自身のやっていることが、かなり冒険であることに気がついた。
 彼はもと来た道へ引き返そうとして、そっちの方へ移動したが、道らしいものはなく、いよいよ樹木の深みにはまりこんでいった。彼はひどくあわてた。彼は幾度か叫ぼうとしたが、声は咽喉で止った。彼は眼に泪をためた。先生のいうとおりだとすれば、さっき彼がたてた理屈がおかしくなる。頂上は一つだ、登っていけば必ず頂上に行き当る筈だ。
 彼は気を取り直した。道を探すことはやめて、一途(いちず)に頂上を目ざして直登(ちょくと)していった。必ず頂上があると思いこんでいれば、道に迷ったことも、朋輩たちと別れたことも、先生に叱られることも、少しも怖くはなかった。
 高い方高い方へ登っていくと、少しずつ明るさが増して来ることが彼にとって希望だった。明るさが増して来ることは、頂上に近づいていることだとは分らなかった。やがて彼は道とも踏み跡ともつかないものに行き当った。そこを登っていくと、ややはっきりした山道に出会い、そこから頂上までは楽な登りだった。
 げんこつ先生は真青な顔をして待っていた。

(新田次郎「神々の岸壁」)∵
 【1】樹木は生命の危険を感じると早く子孫を残さなければと多くの種子をつける。実際、柿の実やどんぐりが豊作になるようにと子どものころ木の幹を思いっきり蹴飛ばした経験がある。
 戦後せっせと植えたスギも、林業が儲からなくなって手入れがされなくなった。【2】とくに間伐がされていないスギ林は、スギ同士の過酷な生存競争でひょろひょろな木となり、ストレスが大きくなっている。こんな環境によって、スギの木も生命の危険を感じ、種子をたくさん残そうと雄花をたくさん付け、花粉を大量に撒き散らしているということなのではないだろうか。
 【3】九州の熊本から九州自動車道を南下すると、八代インターチェンジを過ぎてから道路は山間に分け入っていく。多くのトンネルと急カーブが続き、全長約六キロメートルの肥後トンネルを抜けると、九州で有数の林業地である人吉盆地に入る。【4】道路の両側は急峻な山地が空を狭め、森林が天に伸びている。しかし、近年、その風景に変化が現れている。何気なく通る多くの人たちは気付くことはないのかもしれないが、職業柄、私にはどうしても気になってしまう。【5】それは、至るところでかなりの面積にわたり森林が伐採されていることだ。戦後、せっせと先人たちが植林したスギの林がようやく伐採できるまでになって、利用されるようになったという意味では好ましい現象だが、問題なのは、伐採された箇所に植林された形跡がないことだ。
 【6】私たち、森林・林業にかかわるものからすれば、「伐(き)ったら植える」が常識である。しかし、今やこのような常識が常識でなくなってきている。それどころか、これら植林放棄地の状況をみると、森林所有者が森林を土地ごと手放すケースが増えている。【7】これは、森林を買う木材生産業者が、木材価格の下落に伴い、採算性を維持するためにより大きな面積の森林を買い入れようとする意∵向があり、これが森林所有者の森林を所有することへの負担感と相まって、土地ごとの売却を後押ししているようだ。
 【8】日本の文化は森と木の文化であるといわれる。
 森林に恵まれた国土で、その資源を巧みに利用してきたというのは当たり前だが、とくに日本では、森林を形づくる樹木の種類が豊富であることから、樹(じゅ)種の違いによる木材の性質も様々であり、その違いを上手に使い分けてきた。【9】住まいや身の回りの道具に至るまで、こんなものにはどの木を使うという知恵は、すべての人がもっていた。お櫃にコウヤマキ、まな板にイチョウ、つまようじにはクロモジ、下駄やたんすはキリ、家の土台はクリなどだ。【0】
 また、木材を無駄なく使うということにも意を用いてきた。まさに、日本人は木とともに生き、木によって生活を維持し、木の上手な使い方をあみ出してきた民族である。
 しかし、ここ数十年、木の文化は急速に失われつつある。安価で均質に大量生産できる石油化学製品などの代替品が私たちの日常に氾濫するようになったからだ。木材にしても、外国からやってくるものが八割以上を占めるようになっている。このままでは、日本の木の文化は、文化財や美術品などの特殊な伝統文化に残されるだけになるのかもしれない。
 こうなると、国内の木材はますます使われず、価格も下落していくだろう。結果、国内の森林を守ってきた林業も立ち行かなくなる。そして、間伐などの手入れもされず森林の放棄が拡大していくことになる。
 私たちにとってなくてはならない森林が、今、危機に瀕している。

(矢部三雄『恵みの森 癒しの木』(講談社+α新書)より)