ガジュマロ の山 5 月 4 週
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○自由な題名
○計画
★清書(せいしょ)

○芭蕉はこう言っている
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 さらに、人格を形成していくための重要な場所として、かつては技術の修得が今日よりもはるかに重い手応えを持っていました。現在も技術の修得が人間を作っていることは事実ですが、しかし、これもまた、残念ながらその重さの点で戦線を縮小しつつあるといわなければなりません。たとえば、昔は大工さんになるためには一生の努力を必要とするといわれたもので、私のうちへ時たま来てくれる大工さんは三十年のベテランですが、そういう人が、「大工というものは一生修行ですよ」と今でもいっています。しかし、その後で彼は頭をかいて、「今どきこんなこといっていると、時代からとり残されますがね」とつけたすのです。
 というのは、現代では技術そのものが現実体験ではなくて、情報化された一種の知識の組み合わせになっていて、その分だけたいへん修得しやすいかたちに変わっているからです。早い話が、板というもの一枚を取り上げても、昔の板は人間が鉋を握って、その鉋を動かす自分の腕を通して体験する本当のものでありました。しかし、現在の板はほとんどが合成樹脂で、鉋や手は必要ではなく、いわば、人間の目さえあればそれで用のすむ存在になりつつあります。一枚の板がものであることをやめて、しだいに板のイメージ、すなわち一種の情報になりつつあるわけです。
 そうなると、それを扱う個人の技術はいちじるしく単純化されて、肉体に触れる体験の領域が小さくなって来ます。今日、技術の修得は一生の仕事だという人は、だんだん少なくなり、だいたい免許証をもらえば、技術はそれで完全に習得されたことになっています。料理人や理髪師、自動車の運転手に学校教師、すべて免許証をもらえば、彼にとって職業および技術の修得段階は終りだという意識が拡がっています。現に、それさえ持っていればまず最低限度の生活はできるわけですが、その代わり、その技術をさらに伸ばして、彼独特の技術にする楽しみもなくなりました。
(中略)
 職業のことをドイツ語ではベルーフ(Beruf)といいますが、ベルーフとは「神の呼び声」という意味です。日本語にも「天職」ということばがあるわけで、職業とは食うために勝手に人間が選ぶものではなく、最終的には運命か、あるいは神が人間をそこへ呼びこむものだ、という考えが伝統的にありました。それほど職業∵には神秘的といってよいほどの重みがおかれていたのですが、そのひとつの理由は、人間が職業訓練の中で意識的な知識以上のものを獲得する、という事実ではなかったでしょうか。ものに触れる体験というものは、たんなる知識の学習とは違って、人間が自分で意識できない自己の部分を豊かにします。鉋で板を削って十年、二十年を過ごすということは、彼の肉体の思いがけない部分をふとらせることもあるし、「職人気質」などという、いわくいい難い精神の部分を養うこともあります。じつは、人間の個性とはそうした無意識なものの集積として生まれるものであり、この部分こそ個人の中で真に交換不可能な要素だというべきでしょう。
 これに対して、現代の現実が情報化していくということは、いいかえれば、現実のすべてが知識化していくことであり、その内部の意識を越えた部分が消滅しつつある、ということだといえるでしょう。そして、それにつれて、現実とかかわる人間もまた情報化され、肉体も気質も持たない観念的な存在に変質しつつあるわけです。ひとつの中心を持ち、有機的な統一を持った「私」としての人間が解体し、巨大で、しかし全体像の見えない、奇妙な機械の部分品になりつつあるのが現代だと見るべきでしょう。

(山崎正和『混沌からの表現』による)

 【1】芭蕉はこう言っている――連句の席にのぞんだときには、文机を前にして間髪を入れず句を作るのであって、迷っては駄目である。作りおわって文机から句を引きおろせば、すでにそれは反故でしかない。【2】――もちろんこれは、その一瞬に持てる力量のすべてを燃やしきらねばならないという意味であり、誰にも首肯できる作者の覚悟だが、しかしそれとは別に、そこで成った句は、いかに名作であっても「文台引おろせば即(すなわち)反故也」なのだろうか。【3】おそらくこの言葉も、名作は記録されて後にのこるということと別に矛盾する言説ではあるまい。作品が録されて後世に伝わる、すなわち俳諧の歴史と、俳諧の場はその成立の一瞬の中にあるというのとは、別次元の出来事であり、ここで芭蕉が言いたかったのは歴史ではなく、「場」というものが俳諧には不可避であるという一事にほかならなかった。【4】そう思うと「文台引おろせば即(すなわち)反故也」は、芭蕉の時間感覚の中に、「場」を含む形で時間が流れつづけていたことの証言と受け取れよう。
 「場」といっても、空間的拡がりの形態をとった「場」を思い描いてみることはたやすい。【5】空間的な延長線が、特定の原理基準に基づいて限定され、塞き止められて囲壁(いへき)や枠ができれば、すぐに「場」が成立する。「場」は限定、区劃されているが、固定してはいずに絶えず更新され、変形してゆくものでもある。【6】「場」は地盤ではない。そこからすれば、「場」は時間的な「場」でもあるだろう。芭蕉の『おくのほそ道』の旅も、絶えず入れ替り改まる「場」を方々と求めたさすらいの歩みであったが、これについては後で考えてゆくことにしたい。【7】その旅先で土地の俳人にもてなされ、人々寄り集って一巻の歌仙を巻いた情景ともなれば、明らかに連衆によって形づくられた「場」が見えてくるし、従前からこの「場」は「座」として語られてきた。
(中略)
 【8】一年三百六十五日、この物理的な年の長さにおいて、祝祭の時間の占める割合はごく僅か、短いのが通例であろう。長々といつま∵でも祭が続き、終ったとも終っていないとも取れる曖昧さが生じたりすれば祭は堕落、変質する。【9】祭の特色は時間的に限定され、純粋であることであり、短い時間のあいだしか持続しないことである。たとえ数日に亙って祭が催されても、過ぎたあとで思い返してみれば、短かった、あっという間に過ぎ去ったという一抹の思いが残るのが祭なのだ。【0】「褻」に対して「晴」の時間が、「俗」に対して「聖」の時間が負ったのは、内的な魔性の霊力とその時間的な短さである。一瞬の燃焼のうちにすべてが成るか然らざれば無という極点的な思想までも含めて、そこには短いもの、小なるものへと向かって凝縮してゆく力がはたらいている。松尾芭蕉は俳諧と名付けられる詩のわざに時間的な「場」を設定したが、そのことを通じて――時間の構造を通じて――小なるものに封じ込められた重さを感じとっていた。それが彼の詩人的な存在理法についての認識であったという風に私は解したい。

(高橋英夫『ミクロコスモス――松尾芭蕉に向って』より)