マキ の山 6 月 4 週
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○自由な題名
○マスコミ
★清書(せいしょ)

○ところが、そのキツネザルにすら
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 近頃、いろいろな分野で「二世」が目立つ。スポーツ界をはじめ、芸能界や政界にまで、二世の活躍する場は及んでいる。人間のさまざまな能力について、「遺伝」と「環境」のどちらが影響を与えるのかというテーマは、古くから議論されてきたものである。二世の活躍などを見ると、人間の容姿や才能、性格などを決めるのに、やはり遺伝のほうが育った環境より重要と言っていいのだろうか。
 いや、必ずしもそうとはいえない。ここでは、生まれてすぐに人間の手を離れて育った「野生児」の例を取り上げてみよう。一九二〇年にインドの森で見つかり、カマラ(八歳半)とアマラ(一歳半)と後に名付けられた二人の少女は、オオカミに育てられた子供として知られている。発見当時、二人ともオオカミの住んでいる穴から出てきて、オオカミと同じように行動した。
 もしくは、四足歩行をおこない、舌を垂らしたままで何度もくり返し吠えるのである。また、光を怖がる一方で、夜は活動的になり、毎日四時間ほどしか眠らなかった。飲み物はペチャペチャなめ、食べ物は肉食に偏っていて、うずくまった姿勢で食べた。行動ばかりか、体の形にまで野生生活の影響が現れていた。手のひらや肘、膝、足の裏の皮膚が、厚く硬いかたまりになっていたのである。
 二人は見つかってから孤児院で育てられたが、二足歩行するまでに六年もかかるなど、ゆっくりとしか個性は現れなかった。
 この野生児の例をみると、容姿には遺伝が深く関わっているが、行動や性格の発達に関しては、生後まもなくからの、子供の置かれた環境がきわめて重要なことがわかる。

(大石正道『遺伝子組み換えとクローン』)∵
 【1】ところが、そのキツネザルにすら、「ことば」もどきは存在する。例えば彼らの天敵にあたるような捕食動物が近づいてきた場面を思い描いてみよう。そういうとき彼らは独特の声を出す。この声を耳にすると、周辺にいる仲間(同種個体)はただちに自らの身を守る防御反応を行う。【2】結果として群れに危険の接近を周知する機能を実行しているところから、警戒音と命名されている。
 ただし、天敵の種類はさまざまである。大別しても、空からやって来るものと、地表から来るものとがある。それによって防御の手段の講じ方も、おのずと異なってくる。【3】空からの場合は、地表近くへ身を伏せた方がよい。だが、もし地表から危険が迫ってきているのに、空からのときのように逃避を企てると、とんでもないことになる。
 そこで淘汰圧が働き、キツネザルは複数のタイプの警戒音を出すにいたったのだった。【4】例えばAとBという二種類の声が存在するとしよう。空から捕食動物がやってくるとAの声を出す。すると、聞いた仲間は地表へ逃げる。他方、地表から敵が来るとBの声を出す。その際は、仲間は木の上へと逃れる。
 【5】AもBも、警戒警報である。ただしAは空からの危険、Bは下からの危険を意味している。これは、ほとんど単語による表現に近い。そういう観点では、彼らも記号的コミュニケーションを行っていることになる。
 【6】それどころか、彼らの方が人間よりも、厳密に仲間の発する音声を記号的にとらえているのである。ヨーロッパの昔話で、いつもいつも「狼が来た」とウソを村人に伝えて驚かせては喜んでいた少年の物語というのをご存知だろう。【7】村人たちは、はじめは信じこんでびっくりしていたが、そのうち誰も信じなくなった。あげくのはてに、本当に狼が来ても誰にも助けてもらえず、羊を食べられてしまった少年のエピソードである。
 ああいうことは、キツネザルでは起こらない。【8】彼らだったら極端なケースとして、一〇〇万回「狼が来た」といわれても、やはり逃げることだろう。警戒音の認識に、音以外の手がかりは∵介入しない。ともかく身の危険にかかわることだから、少々いかがわしい情報であっても、とりあえず信じた方が安全、という発想が働く。【9】サルの理解の仕方は、柔軟性に欠けるのだ。
 「柔軟性を欠く」と書くと、融通がきかず頭が悪いみたいに聞こえるかも知れない。しかしシグナルの記号としての意味作用に忠実であるという意味では、人間より抽象度の高い認識を行っていると言い換えることもできなくはないのではないだろうか。【0】
 人間は、過去の経験にもとづいて、ことばの意味理解を変えていく。反対にこのことは、発話を行う側も、常に相手に聞き入れてもらえるよう配慮して話をすることを意味している。そして、聞き手は相手がこちらを意識して話をしていることに気づいている以上、その意図を把握しつつ、発話内容を吟味する。
 考えてもみよう。「君は、よく勉強するね」といわれたにせよ、それが字面通りの誉めことばなのか、「勉強しない」ことへの皮肉なのかは、文字の配列から判断することは不可能に近い。相手の顔色を読み、状況を斟酌し、あるいは話し手の普段の言行を参照しなくてはならない。
 つまり言語理解というのは、意外なほど記号的でなくて、反対に相手の心を読む(発話を手がかりに心理を推測する)過程であることがわかる。むしろサルの方がよっぽど厳密に記号類別に依拠して情報伝達を行っているのだ。
 ところが、最近の日本人を観察してみると、そのコミュニケーションはこの言語進化の進んできた方向を逆行しているように思えてならない。つまり、ことばのメッセージを常に記号として把握する傾向が高まっている。そして、そういう認識の仕方をサルが実行している以上、サル的な方向へとコミュニケーションのスタイルを変えてきたという結論にたどりつくのだ。(中略)
 こうみてくると、昨今の日本人のコミュニケーションの特徴である「サル化」とは、すなわち語用論能力の衰退と表現することができる。そして、その傾向の背景としては、社会のIT化、人間同士の情報伝達がケータイのような代物への依存度を大きく増したことが考えられるのだ。
 (正高信男『考えないヒト』)