ワタスゲ2 の山 6 月 4 週
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○自由な題名
○マスコミ
★清書(せいしょ)
○翌日も朝から夕方までの
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【1】翌日も朝から夕方までのおよそ七時間程度の発表を終え、そして再び、夕食後を迎えた。私は何か特定のテーマに沿って、学生達と討論することを考えなかったわけではなかったが、昨日の風景が脳裏から離れなかった。【2】昨日のあの不思議な風景は教育者としての私よりも、実験心理学者としての私をはるかに刺激していた。昨日と同じような状況下で、二日目の夜を学生達がはたしてどのように過ごすのだろうかという疑問の誘惑に、私は、抗しきれないでいた。【3】そこで再び昨日と同様の自由時間を彼らに与えることにした。そして、結果は再現された。昨日と同様に。二日目もゲームが深夜まで展開された。
「今の彼らにはゲームをするよりも、もっと大切なことはないのだろうか。【4】例えば自分の関心のあることを人に聞いてもらったり、人の話を聞いてみたいとは思わないのだろうか」。この再現された不思議な風景を説明するためにいささかの考察を試みようとしたが、結局成功しないまま、私は浅い眠りについた。【5】そして私の愚問は、何の解答をも見いだせないままに、初秋を迎えてしまっていた。
ところが私は一つの解答らしきものへの指針を、合宿後しばらくして研究室を訪れた一人の学生との会話の一端に、見いだした。【6】その学生の言葉を要約すると「ある種のシリアスな話題を気軽に口にしてはいけない。それは相手に重荷を背負わせることになるかもしれないし、もし相手が話に乗ってこなかった場合には、自分だけが浮き上がってしまうかもしれないから」。【7】言葉を補っていえば、学生達はシリアスな話題で相手を困らせたくもないし、自分自身も困りたくはないのである。そして彼らは他人も自分も傷付けたくはないのである。また今までに十分、不自由な思いをしてきたから、過去の不自由さを取り戻すために、今眼前のそれが何かわからないままに、とにかく今をこなすのに忙しいのである。【8】シリアスな状況に関わって困るということは立ち止ることであり、立ち止るということは彼らにとって、無条件に「いけないこと」なのである。少なくともゲームをしていれば、その世界で擬似的にシリアス∵な状況に陥るとしても、現実の人間関係の世界でのわずらわしさに関与する機会を回避できるのかもしれない。
【9】結論を急げば、彼らは限りなく優しいのである。ただ他人に対してだけではなく、自分に対しても。また彼らは幼いのではなく、幼い時期にするべきことを十分にさせてもらえなかっただけなのかもしれない。【0】私にとって不思議と思えた風景を私自身の大学時代の記憶に求めたことが間違いであって、その原風景を私は高校や中学時代の記憶に求めるべきだったのである。
学生達の行動に対するこうした私の拡大解釈は、しかし、私を次のような杞憂へと誘う。小学校の時代に、やりたかったけれどもできなかったことを、中学校の時期へと先延ばしし、中学校でやろうと思ってもできなかったことを、高校へと先延ばしにし、高校でできなかったことを、大学に、大学でのことは、大学院へと、あるいは社会生活へと、順次先延ばしにしているのではないだろうか。(中略)
「幸せの姿はたった一つであるが、不幸の姿は数限りない」。しかし、現今の世情を眺めると、幸せの姿は曖昧すぎて記述できず、不幸の姿はまた多すぎて記述できない。とすれば、私達には「困って立ち止る」という贅沢は許されていないのであり、そのために逆説的な意味で、学生達は困らないための智恵としての擬似実践力を身に付けてきたのではないだろうか。何故なら、男女として話すことも、個人的な重荷を語ることも聞くことも、それらいっさいの作業は、すべて状況をシリアスに捉え、吾と彼とを抜き差しならない人間として認識することを前提として始まるからである。すなわち、そうした状況認識は畢竟、吾も彼も心身両面にわたって傷つくべき生身の生きものであるという認識の共有を求めているのである。
(斉藤洋典『幸福の順延方程式』)