ヤマブキ の山 6 月 4 週
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○自由な題名
○マスコミ
★清書(せいしょ)
○民主主義を一度も
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日本の人里の、何もきわだって美しいといえない風景の中にも、最近とくに知られるようになり、若い人たちが訪れる場所ができ始めた。京都の嵯峨野などは、そうした場所の一つに数えられるだろう。また大和の山の辺(べ)の道も、だんだん人気が出てきたようである。だが、これらの場所は、実は、完全な自然の風景ではなく、背後にひかえている歴史の重みが加わって、その価値を高めているのだ。風景を考えるとき、これは非常に重大な点である。
その地の歴史を知ることにより、平凡な風景、ありふれた小山が、見る人びとをたちまち深い感興を催す。きっかけは、歴史だけではない。芭蕉の俳句に詠まれたいくつかの風景は、その地に行って、ゆかりの風物を見る現代人の心に深い感慨を呼び起こす。風景は、見る人の心によって変わる。風景の価値は、その現在の実体と、過去を思う観賞者の心の交渉のうちに成立する。
風景の要素には、歴史が大きくかかわるだけではない。自然に対する知識が、なかなか大きく作用する場合がある。名もない花が咲いているのをただ見るだけでなく、その花の名が全部わかり、そのあるものがその土地にあることの意外性といったことがわかり、その育ちぐあいの良さ悪さまでわかったら、興ざめになるどころかかえっていっそう印象が深まるというものだろう。向こうの丘陵の雑木林の中に、若葉をつけたコブシの木の群れを見いだし、二か月前の花のころの光景を想像に描くのは悪い趣味ではない。まわりで鳴く小鳥の声を聞いて、その鳥の種類がわかるのも楽しい。ツキヒホシポイポイと形容されるサンコウチュウの鳴き声を、珍しくも人里近くで聞いた時のうれしさは、風景のよさと必ずしも異縁ではない。
日本の風景で、今まで人がほとんど注意を払わなかったものに生け垣(がき)がある。農村の住宅は生け垣(がき)で囲った家が多い。農村の生け垣(がき)用の樹種は、都会の住宅地より単調な場合が多いが、そのかわり年を経た貫禄のあるものが少なくない。生け垣(がき)というものは、手入れのぐあいで、実にさまざまな態様をしていて、見る人の心を刺激するものである。
人の住んでいる風景と関係するものには、もっと人間くさいもの∵がたくさんある。向こうのあの松の下の家のおばあちゃんは梅干を漬けるのが上手で、その隣の家の息子は野球選手で甲子園に出場したことがあるなどと知っていたら、その興の深さはどうだろう。そんなことは、風景とは関係ないと言う人がいるかもしれないが、私は何か関係があるという意見である。
日本の、人の住む風景には、心温まる潤いと豊かさをそなえたものが、いたるところにある。それは、いろいろな自然・人文の知識に裏打ちされいっそうの興趣を盛り上げる。自分もそこに住み込んで、朝夕その中に溶け込みたいような風景……いや、それよりも「風土」といったほうが適切な場所が、まだまだ、日本にたくさん残っているのである。
(中尾佐助「私たちの風景」)∵
【1】民主主義を一度も体験したことのない社会や世代は、民主主義をとにもかくにも「素晴らしいもの」と考え、そうした立場に立ってそれを描き、讃えようとします。しかし、長い間にわたって民主主義を実践し、体験し、その実情を目にすることが増えてくると、こうした議論はなかなか人々の賛成を得られなくなります。【2】いろいろと「訳の分からない」ことや、いい加減なことが数多くあることを否定できなくなるからです。多くの人々は、先程例にあげたような民主主義批判が、あながち見当外れとばかり言えないことを肌で感じています。【3】問題はその先です。「それでは他にどんな方法があるのか」ということへの回答がなければ、議論は先に進まないからです。
二十世紀は「民主主義の世紀」と呼ばれたように、人類は実にたくさんの政治上の実験を行ってきました。【4】整然とした政治の実現のための仕組みや、本当の意味での「人民のための政治」を実現するための試みも行われました。ファシズムや共産主義はその代表例だったと言えます。【5】しかし、民主主義に対するさまざまな批判は、確かに鋭く説得的に見えたにもかかわらず、それに代えて実行に移した代案をみると、その結果は決して芳しいものではなく、民主主義以上に惨憺たるものでした。そこで再び民主主義へと舞い戻ることになったのです。【6】二十世紀後半以降の歴史は精神的にはこの舞い戻りの歴史であり、民主主義は初恋の相手のように胸躍るものではなかったにせよ、どこかにどうしても捨てがたいものがあったということでしょう。
日本も相当長い間にわたって民主主義を実践してきました。【7】こうした体験を重ねてくれば、民主主義の「素晴らしさ」を説く議論があるかと思えば、他方ではそれを先のように「けなす」議論をしていい気分になっているという向きもあります。しかし、それもそろそろ卒業すべきでしょう。【8】日本の民主主義はまさに、こうした段階の真っ只中にいるのです。つまり、そろそろその欠陥や「訳の分からなさ」を見据えながら、それを具体的に改善する方法を探らなければなりません。民主主義の「素晴らしさ」を讃える議論とそれを「冷やかす」「けなす」議論とのやりとりは、いわば空中戦というべきものです。【9】しかし、本当に必要なのは、地道に一歩一歩何をどう変えていくかという地上戦なのです。∵
ここでは「あれか、これか」式の空中戦ではなく、「より良く」が合言葉になります。人生の多くの局面において大事なことは、「より良く」を心がけ、実行することです。【0】「あれか、これか」に比べると、「より良く」を探求することは派手ではなく、あまり魅力のないもののように見えるかもしれません。しかし、人間の社会や個人の人生において大事なことは、ちょっとの違いが大きな違いにつながるということです。継続的な努力が必要なのはそのためです。五十歩百歩だからといって馬鹿にしてはなりません。何も、欠陥があるのは民主主義だけではないのです。われわれ個々人も社会などの組織も、欠陥のないものはありません。それを継続的な努力によって「より良く」していくことが大切なのであり、民主主義も例外ではないはずです。もちろん、人生や組織を「壊すこと」が目的でないならばですが……。
(佐々木毅(たけし)『民主主義という不思議な仕組み』より)