ミズキ2 の山 7 月 4 週
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○自由な題名
○結果と過程とどちらが大切か
★清書(せいしょ)
○日本語にはとってもいい言葉が
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【1】日本語にはとってもいい言葉があります。そのとってもいい言葉の一つだと思うのが、「器量」という言葉です。「器量好し」というふうに言う。その「器量」の「器」は容器のことです。「量」はおおきさです。【2】つまり器と、その器に容れられるおおきさです。「器量好し」というのは、ですから姿を言うのではありません。器ですから、人間というものの器、すなわち心という、心の器のおおきさを表すものです。
【3】日本語のなかに生まれ育ってきた人たちは、人を見定めるのに器量ということをもって、目盛りにしてきました。しかしもうすでに、そうではなくなっています。器量でないもので人を計ろうとしていて、人が狭量になってきています。【4】器量という物差しがあまり使われなくなっているとすれば、世の中はおもしろくなくなってきます。
器量は人の心のおおきさを表します。「器量好し」というのは、心のおおきい人のことです。【5】そういった心のおおきさを、あるいは心の容積というのをおおきくしてゆけるような言葉を、どれだけ自分のなかにたくわえているだろうかということが、これからの時代の物差しになってゆかないと、わたしたちの時代の言葉は、どんどんと乏しくなっていってしまうでしょう。【6】言葉に器量をとりもどすということが、これからはもっとずっと大切になってくる。わたしはそう考えています。
【7】二一世紀という時代の変わり目にあるということは、すなわち二〇世紀という一つの世紀がつくりあげた、みなおなじという文化もまたその変わり目にあるということです。わたしたちが手にしてきたのは、みなおなじである世のあり方でした。【8】けれども、これから質(ただ)されるのは、みなおなじという等質な社会のあり方のなかから、自分のものでしかない価値、自分という独自性を見つけられるかは、どんな言葉をどのように使って、自分で自分を自分にしてゆくことができるか、あるいは自分というものがその言葉によって、どのように表されてゆくだろうかということに、深く懸かっているでしょう。
【9】見つめるものは、何であってもかまわない。ただ何を見つめようと、まずそこにある言葉に心をむける。そこから言葉のありように対する感受性を研いでゆくようにすることを怠けなければ、目の前にある状況というのは、きっとまったく違って見えてきます。【0】そうした経験の重なりから、言葉との付きあい方、係わりあいを通して、人間の器量というのはゆっくりとかたちづくられてゆくの∵だろうと思うのです。
言葉は意味がすべてではなく、怒ったときは怒ったように話す。悲しいときは悲しいしかたで話す。そのとき言葉が伝えるのは、言葉が表す意味でなく、言外の意味です。意味というのは言葉によって指し示される、心の方向のことです。言葉というのは、自分の使う言葉がどんな自分を表しているか、ということです。
たとえ、みながみなおなじマフラーをもっていても、自分が自分であることを示すのは、自分はそのマフラーをどう結ぶかです。重要なのは、どういうマフラーをもっているかではありません。そのマフラーをどう結ぶかです。
言葉もそうです。みながみなおなじにもつ言葉をかけがえのない自分の言葉にできるものは、一つだけ。自分は自分の言葉というものをどう結んでゆくかという言葉にむきあう態度、一つだけです。
(長田 弘『読書からはじまる』より)