ニシキギ の山 7 月 4 週
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○けんかをしたこと
○動物園の思い出
★清書(せいしょ)

 日本人が、水を

 日本人が、水をきらうようになってから、もう一つ、こまったことがおこりました。水がたりなくなってきたことです。ふった雨を、海へすててしまったのですから、水はもう足もとにはありません。水がたりなくなるのは、あたりまえです。それなのに、そんなふうに水をおいだし、土地をかわかしておきながら、そのかわかした土地の上に家ができ、ビルができ、工場ができたのです。おおぜいの人があつまってきて、たくさん水をつかいました。水洗便所もできました。全自動洗濯(せんたく)機にも、自動車の洗車にも、水がつかわれました。
 このように、いっぽうでは、水をきらってどんどん海へすてながら、いっぽうでは、水をほしがったのです。水はたりなくなるばかりでした。
「では、上流にダムをっくって、そこから水をもってこよう。」
 こうして、ダムがつくられるようになりました。ダムができると、だれもが安心していいました。
「これでもう、水はだいじょうぶだ。」
 ダムの水は、わたしたちの飲み水になり、工場やビルでもつかわれました。ダムの水は、発電にもつかわれました。電気と水。この二つのすばらしいおくりもののおかげで、工場では、たくさんのものがつくりだされました。わたしたちのくらしは、とてもゆたかになりました。町の中は夜も明るく、そしてべんりになりました。
 そんなふうに、さまざまなぎせいをはらって、やっとつくりあげたダム。でもダムは永久に、水をたくわえてくれるものなのでしょうか。
 ダムは、水をたくわえはじめたそのときから、土砂もたくわえはじめます。ダムは水といっしょに、土砂もせきとめてしまうのです。日本は、山がけわしいうえ、雨の量が多いために、土砂はたいへんはがれやすいのです。このためせっかくつくったのに、二十年か三十年で土砂にうずまり、つかえなくなってしまったダムもあります。いまのこのしゅんかんも、土砂はダムにたまりつづけています。ダムは、年とともに、水をたくわえなくなっていく生きものです。

「川は生きている」(富山和子)より抜粋編集

○久助君の身体のなかに
 久助君の身体のなかに漠然とした悲しみがただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜のさきぶれの闇とが、地上でうまくとけあわないような、妙にちぐはぐな感じのひとときであった。
 久助君の魂は、長い悲しみの連鎖のつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
 六月の日暮の、微妙な、そして豊富な物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
 久助君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
 すると遠いざわめきのなかに、一こえ仔山羊のなき声がまじったのをききとめた。久助君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの仔山羊を、ひるま川上へつれていって、昆虫を追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、仔山羊はひとりで帰ってきたのだと確信をもって思った。
 久助君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
 仔山羊は向こうからやってくる。
 久助君にはほかのものは何も眼にはいらなかった。仔山羊の白いかれんな姿だけが、――仔山羊と自分の地点をつなぐ距離だけがみえた。
 仔山羊は立ちどまっては川縁(かわっぷち)の草をすこし喰(は)み、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
 久助君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
 仔山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
 久助君は胸が熱くなり、なみだが眼にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
 仔山羊はひとりで帰ってきたのだ。
 久助君の胸に、今年になってからはじめての春がやってきたよ∵うな気がした。
 久助君はもう、兵太郎君が死んではいない、きっと帰ってくる、という確信を持っていたので、あまりおどろかなかった。
 教室にはいると、そこに――いつも兵太郎君のいたところに、洋服に着かえた兵太郎君が白くなった顔でにこにこしながら腰かけていた。
 久助君は自分の席へついてランドセルをおろすと、眼を大きく開いたまま、兵太郎君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、兵太郎君といっしょに笑い出した。
 兵太郎君は海峡の向こうの親戚の家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ久助君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。兵太郎君は帰ってきたのだ。
 休憩時間に兵太郎君が運動場へはだしでとび出していくのを窓からみたとき、久助君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに尊く、美しく思われた。

(新美南吉「川」)