ジンチョウゲ の山 7 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)

○言葉の裏返しを考える上で
 言葉の裏返しを考える上でいつも思い出すのは五味太郎の『あそぼうよ』というごく幼い子向きの絵本である。
 登場するのはことりとおじさん風のきりんだけ。ことりが「あそぼうよ」というと、きりんが「あそばない」と答える。毎ページ、このくりかえし。しかし、絵をみるとこのきりんおじさんはなかなかふざけんぼで、首をくるくるまわしたり、かくれんぼしたり、あげくのはてはことりを背中に乗せて泳いだり、サービス満点の遊び相手なのだ。しかし口にする言葉は徹頭徹尾「あそばない」。最後にことりが「あした また あそぼうよ」とうれしそうに飛び去るときも、きりんおじさんはとっぽい顔で「あした また あそばない」とこたえる。
 この絵本、まじめな保育園幼稚園の先生方には評判はよろしくなかったらしい。どこかの園長先生から「せめて最後だけはあそんでほしかった」という抗議の声が寄せられたという話を聞いて笑ってしまった。が、このやり取りの面白さを大人が理解して楽しく読めば、子どもたちはてきめんに喜ぶ。子どもたちはくり返しをすぐ覚え、きりんおじさんになって、わたしが「あそぼうよ」と呼びかけると、みんなで声をそろえて「あそばなーい」と叫び、くすくす笑うのである。意味の上で反対のことを言っても相手と通じ合うというコミュニケーション体験は、この相手ならばこそ、という濃厚な関係を互いに意識させる。だから、くすぐったい。子どもたちはきりんおじさんになって、言葉の文字通りの意味を超えて相手に触れるのである。そう、ここでは言葉は相手に触れる道具になっている。そのためには文字通りの意味が過激であるほうが触れるという感覚を強くする。言われた方は、はっと胸を突かれ、瞬間、立ち止って、相手の意図を知って笑う。こんな触れ合いが成り立つためにはなんといってもお互いのゆるぎない信頼関係が前提になるではないか。
「ウソ」「マジ」もこれと同じだと思う。不信の念を過激に表せば表すほど、言葉の意味を超えた次元での互いの信頼関係は強固に確認される。言葉によるスキンシップといってもいいかもしれない。∵電車のなかなどで数人の若い人の会話を聞いていると、「ウソッ」「マジッ」がやたらと耳を打つ。どうやら会話の内容には重みはなさそうで、場をもたせるのが大切らしい。ごにょごにょと話があると、間髪をいれず「ウソッ」、「マジイー」と来る。謡曲の鼓のようにそれが「カーン」と響き、会話を支えている。「ウソ」「マジ」は心の絆を確かめ合い、安心して次に進む会話の青信号のようだ。「ほんと」よりもずっと相手の心のど真ん中を突いて親しさを盛り上げている。若い人たちの間で瞬(またた)く間に広がっていったのもうなずける。しかし、あいづちの言葉などは使う頻度が高いから、使っているうちに洗いざらしになって、当然、色あせてくる。ショウ迫力も失せてくる。中高生たちの会話に耳を傾けていると、「ウソ」も「マジ」も、もうそんな鮮度は失って、ごく自然に、普通に使われている。昨日も塾に来ているおとなしい地味なタイプの中学生の女の子がふたり、仲良くなって静かに会話をかわしていたが、「ウソ」や「マジ」がささやき声で行き交っていた。たった二十数年でこんなふうに言葉の命の変化を見極められるなんて面白い。万が一「マジ」が生き残ったら、五十年後、ふたりの老人が日向ぼっこをしながら、互いに「マジッすか」と静かに言い交わし、語り合う場面があるかもしれない。
 おやおや、どこかから高校生たちの声がする。「ありえな〜い!」

(長谷川摂子()の文章による)