リンゴ2 の山 8 月 4 週
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○自由な題名
★清書(せいしょ)
○美しさは創造の領域に
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【1】美しさは創造の領域に属するものと考えられがちだが、何かを生み出すのではなく、ものを掃き清め、拭き清めて、清楚を維持するという営みそのものの中に、むしろ見出されるものではないかと最近では思うようになった。【2】特に、禅宗の寺や庭などに触れるにつけ、その思いは強くなる。禅寺の庭が美しいのは、作庭家の才につきるものではない。むしろ常に掃き清められ、手をかけられているがゆえの美しさとも見える。【3】それも一年や二年の清掃ではなく、長い年月を経て、清掃に清掃を重ねてくることで、自然と人間の営みの、どちらともつかない領域におのずと生まれてくる造形の波打ち際のようなものが、庭というものの本質をなしているように感じられるのだ。
【4】自然とは変化流転するものであり、人為を超えて強靭で、それは人間の思惑のうちにとどまらない。岩や地面には苔が生じ、落ち葉は堆積して新たな土を作る。木肌は退色して滋味を生じ、池の水は碧(みどり)に澄む。【5】自然の贈与を受け入れることは、待つということである。長い時間の果てに、人為ではとうてい届かない自然の恵みに浴すことが出来る。
一方で、人は意志を持って、自然と拮抗するものである。【6】禅寺の方丈の前に広がる白い四角い石庭は、人の意志の象徴にも見える。有機的な自然の中に決然と白く四角く存在を示している。この白い石の庭は自然のままでは維持することができない。【7】放っておくと、落ち葉や天然の塵芥(じんかい)がその上にゆっくりと降り注ぎ、アースカラーに覆われていく。その白を白として保つには、小さな石のおびただしい集積の中に混入した自然の微細な塵芥(じんかい)を取り払い、ぬぐい去るという、気の遠くなるほど手間のかかる作業が必要になる。【8】もちろん、石庭に限らず、飛び石も、苔も、床も、障壁も、埃を拭い、ちりを払い、自然の風化に任せない人為による制御を、倦まず撓(たゆ)まず繰り返さないと庭は維持できない。∵【9】自然のままに放置すると、禅寺は数年のうちに草木に埋もれて朽ち果てるだろう。そのような、自然と人為のせめぎあい、あるいは混沌と秩序のせめぎあいが清掃である。その清掃の果てに現れてくる人と自然のあわいに日本の庭がある。
【0】また、清掃は創造を伴わないという点では、変化ではなく維持に価値をおく態度でもある。今日においては諸芸術全般に「新しさ」すなわち刷新性をことさら評価する風潮があるが、誤解を恐れずに言えば、日本の美意識とは新しさを生み出すことよりもむしろ維持するところに湧き出した心性ではないかと思うのである。変化の激しいのは今日のみではない。自然は常に流動する。その流動を食い止め、静止を意図し、普遍と不変を標榜しながらコンシステンシーを保っていくことには壮大なエネルギーが必要である。禅寺という場所はそういう意味での常態不変への意志で制御され、日々清掃を重ねている。その常態不変の象徴のように見える石庭が、白く表現されていることは重要である。
(原研哉『白』による)