リンゴ2 の山 9 月 4 週
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○自由な題名
★清書(せいしょ)
○この本をひもとくたびに
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【1】この本をひもとくたびに、いつも私の心にとどまるのは、冒頭の有名な一句である。どの段を読んでも、最後はきまってここへ戻ってくる。【2】「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物ぐるほしけれ」という一節は、そのたびごとに深さを増してくるようだ。
【3】冒頭の「つれづれなるままに」という言葉が最も大切である。退屈まぎれとか、為すこともないままにとか解釈するのはむろん誤りであろう。そういう一種の倦怠感を宿してはいるが、根本には何かしらやるせない気持と異常の孤独が察せられる。【4】それを決してあらわには告げない。事もなげに、ゆったりと構えているようにみえ、筆致また軽妙を旨とする。その点、「おのづからのまにまに」と云(い)った思いに似かようけれど、この語のもつ明るさ、のびやかさに比べると、知的にやや仄(ほの)暗い感じがつきまとう。【5】切迫した不安を伴いながら、焦慮するでもなく、行方を定めるでもない。云(い)わば明暗のあわいに、心はとりとめもなく回転して行く。明晰にして明晰を意識せず、何ものかに憑かれているようで、妙に自意識は冴えわたる。【6】好奇心と放心との同時的存在。恐らく兼好みずから、かような心境をもてあましていたのではなかろうか。「つれづれなるままに」苦しかったのだ。「あやしうこそ物ぐるほしけれ」という結句が、この間の微妙を告げているであろう。
【7】すべて真向の情熱から語った人の文章には、どこかどぎついものがある。殊に人間の生死については、ことが異常であればあるほど臭みを帯び易い。【8】真向の情熱や真正面から取り組むことは、正しい態度にちがいないが、何がほんとうに真向真正面であるか、これはむずかしい問題だ。兼好の文章は、興味のままに筆を走らせているところ、一見、好事家と傍観者の相を呈する。【9】この外相がかなり人々をあやまったように思われる。徒然草は随筆なりという安易な定義と、併せて随筆の「気軽さ」なる心理が瀰漫した。この言葉のもつ一種の狂気は、見失われてしまったようである。∵
【0】兼好は人生万般を決して真正面からなど見ていない。つまり彼の凝視は直線的でない。例えば陶器鑑賞のように、あらゆる角度から異なった光線のもとに眺め、裏をかえし底をみつめ、丁寧に撫でまわして一々の触感を試み、ついに自己と対象との刹那間に共通の体温を保とうとする。この共通の体温の上で、しかも彼は一切を語ろうとはしない。人生の表裏に徹すれば、一切を語ることの不可能はよくわかるはずだ。ただ微笑を浮べる。事物そのものでなく、それが地上に投ずる翳のみを語る場合もあろう。
彼のものの見方は、見ずして見る、或いは見て見ぬ様子をする、しかもよく見ている風で、好奇心と放心が同じ波紋を呈してひろがる。矛盾撞着など眼中にない。鋭く、辛辣だが、鋭く辛辣に書こうなどとは思っていない。強烈な自意識を内に湛えながら、これにふわりとした節度を与える。筆をおろさんとする刹那の気構えからいえば、「つれづれなるままに」とは、この微妙な調子を整える心琴の撥合せとも解されよう。そこから類のない微笑が湧く。すべてをあらわに語りつくそうという人は、兼好にとって共に談ずるに足らなかったであろう。彼は好んで余情陰翳に住せんとした人のごとく思われる。(中略)
兼好は晩年、京都雙ヶ岡(ならびがおか)に住んでいたと伝えられる。
ちぎりおく花とならびのをかのへにあはれいくよの春をすぐさむ
「ならびのをかに無常所まうけてかたはらにさくらをうゑさすとて」と題して、右の一首が家集にみえる。彼がここで歿(ぼっ)したかどうか明らかでない。遺言辞世なく、傍らに侍(じ)した人の手記らしいものも残っていない。最後の有様は窺うべくもないが、おそらく兼好は、息をひきとらんとするとき、「うむ、なるほど」と心にうなずいて瞑目したのではなかろうか。
(亀井勝一郎()「古典的人物」による)